系譜で辿る日本史:15世紀前半(1401年-1450年)

絶大な権力を有した室町幕府3代将軍・足利義満の時代を引き継ぎ、しばらくは比較的安定した時代が続いていた。
しかし6代将軍・義教の時代に「嘉吉の乱」が発生。将軍が臣下の者に殺害されるという前代未聞の事態に、将軍の影響力は失墜した。その後も若年の将軍就任が続いたことで、次第に守護大名が影響力を拡大させていくことになる。

絶大な権力を誇った3代将軍・義満が死去。4代将軍は子の足利義持。
斯波義将が幕政の重鎮として斯波氏全盛期を築く。
3代将軍・義満に疎まれ失脚していた畠山満家が、弟に家督を譲られ復帰。
元関東管領・上杉禅秀が反乱を起こし、鎌倉公方・足利持氏を追放。一時鎌倉を占領する。禅秀方には持氏の叔父・持隆、弟・持仲も加担する。
しかし将軍・義持が持氏支持を表明すると、幕府軍に攻められ禅秀らは自害。(上杉禅秀の乱_1416年)
将軍義持の弟・義嗣が突如出奔。後に上杉禅秀(義嗣にとっては母方の祖父)との内通が判明し殺害される。
その後、諸大名にも次々と内通の嫌疑がかかり、波紋が広がる。
管領・細川満元が上杉禅秀との内通を疑われ、政務放棄。しかしその後明確に処分されることはなかった。
乱の戦後処理において、持氏は関東諸大名(親幕府方も含め)に対して苛烈な処分を下し、対立を深める。
足利義量(義持の子)が5代将軍となるが、早世。義持はその後、亡くなるまで後継者を定めず、「室町殿」として政務に当たる。
室町殿・足利義持が、3カ国の守護・赤松氏の家督相続に乗じて勢力削減を図る。赤松氏が反発すると諸大名を動員し討伐に動こうとするが、一色氏は出陣を拒否。細川氏も出陣に否定的で、管領・畠山満家は独自に仲介に乗り出す。
結果、赤松氏は赦され3カ国の相続を認められる。
義持が死去。くじ引きにより足利義教が6代将軍に就任する。
将軍・義持の死去に伴い、管領・畠山満家は次の将軍を義持の弟4人のうちからくじ引きで定めることを決める。
将軍・義教はその就任の経緯から不安定であった権力基盤の強化に努め、有力守護大名の家督継承に干渉し影響力を強める政策を推し進める。
斯波氏・畠山氏の家督継承に将軍・義教が干渉。
山名氏・京極氏などの家督継承に将軍・義教が干渉。
一色氏・土岐氏が誅殺される。
また、赤松氏の所領が没収されるとの噂が流れる。
鎌倉公方・足利持氏と関東管領・上杉憲実が対立すると、幕府は憲実支援のため幕府軍を派遣。持氏は幕府軍に攻められ自害。(永享の乱_1438年)
将軍・義教が鎌倉公方の後任として自身の子を下向させようとすると、これに反発した結城氏が前公方・持氏の遺児を擁立し挙兵。幕府軍に敗れて敗死する。(結城合戦_1440年)
畠山持国が結城合戦への出陣拒否を理由に隠居させられる。
将軍・義教が赤松満祐に殺害される。将軍が臣下の者に討たれるという事態に、将軍権威の失墜を招く。
管領・細川持之は現場に居合わせながら、将軍殺害を阻止できなかった。のちに朝廷の綸旨を経て討伐軍を編成し、赤松氏を討つ。
畠山持国も討伐軍に参加し、戦後当主に復帰する。
赤松満祐が将軍・義教を宴に招き、その最中に殺害。新たな将軍を擁立する姿勢まで見せるが、討伐軍に攻められ敗死。
赤松氏の後任として山名氏が3カ国守護を獲得し、明徳の乱以降再び勢力を回復させる。
義教の子・義勝が9歳で7代将軍に就任するも、在任わずか8ヶ月で死去。後任はのちの足利義政(当時8歳)に決まる。
若年の将軍が続き、影響力の低下を招く。
管領・畠山持国の後見を得て、足利義政が時期将軍に擁立される。
畠山氏と細川氏の勢力争いが拡大すると、それぞれが肩入れした勢力によって各大名家のお家騒動を誘発させる。
(畠山持国は将軍・義教の時代に冷遇された勢力を支援、逆に細川氏は義教によって取り立てられた勢力を支援した。)
関東諸将の要請で、前公方・持氏の遺児・成氏の鎌倉帰還が実現し、鎌倉公方が復活する。

主な人物の家系図

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