系譜で辿る日本史:15世紀後半(1451年-1500年)

若年で8代将軍となった足利義政だが、成長すると歴代将軍に倣い、有力大名家の家督争いに介入し影響力の拡大を図る。ところが畠山家の家督争いに端を発した「応仁の乱」が起こると、多くの勢力間の争いが入り乱れて収拾の付かない事態となり、京の都は荒廃する。
応仁の乱以降も、将軍が幕府軍を率いて六角氏討伐に向かうなど一定程度の影響力を保持したが、細川政元によるクーデター「明応の政変」により将軍・義材が追放されると、将軍権威の失墜は決定的なものとなった。
またこの頃、主家・斯波氏から越前を奪った朝倉氏や、堀越公方・足利茶々丸を討ち伊豆を奪った伊勢宗瑞(北条早雲)など、のちの戦国大名となる勢力が歴史に登場する。

将軍・義政は成長すると守護大名の家督争いへの介入を強める。
畠山持国は当初弟を後継としていたが撤回し、庶子(のちの義就)を召し出し後継とすると一部の家臣が反発。これに細川氏・山名氏が介入し内紛に発展する。最終的には将軍・義政も介入し、義就が家督を相続する。
成氏が関東管領・上杉憲忠を誅殺。拠点を古河に移し、以後古河公方と呼ばれる。
これ以降、関東では古河公方方と幕府勢力方の争いが続く。(享徳の乱_1455年~)
古河公方・成氏討伐のため、将軍・義政は兄・政知を新たな鎌倉公方として下向させる。しかし政知は関東諸将の支持を得られず鎌倉に入れなかったため、伊豆堀越に留まり堀越公方と呼ばれる。
越前を本拠地とする斯波氏当主・義敏と守護代方(甲斐氏・朝倉氏)で内乱が発生。将軍・義政は古河公方討伐のため義敏にも関東出兵を要請したが、義敏はこの内乱の対処を優先し対立。義政が守護代方の支援に回ったことで争いは守護代方が勝利し、義敏は九州に逃げ延びる。
畠山義就は、将軍・義政の信任を失い失脚。従兄弟の政長が畠山氏当主となる。(管領・細川勝元が擁立。)
義就は河内に下り抵抗を続ける。
将軍・義政の弟・義視が還俗。後継者候補となる。しかしその翌年、義政に実子・義尚が生まれる。
伊予・河野氏の内紛を巡り、管領・細川勝元と周防の有力大名・大内氏が対立する。
将軍・義政は斯波氏の当主に斯波義廉を据える。義廉の父は堀越公方・政知の執事を務める渋川義鏡。
この親子関係を利用し、斯波氏の関東出兵を実現する狙いがあったとみられる。
堀越公方・政知の執事・渋川義鏡が失脚。
渋川義鏡の失脚により斯波義廉の立場が揺らぐと、追放されていた前当主・斯波義敏は復帰工作を始める。危機感を抱いた義廉は、支援を求めて山名宗全に接近する。
応仁の乱_1467年~
河内で抵抗を続けていた畠山義就が山名宗全や斯波義廉らの支援を受けて上洛し、対立する畠山氏当主・政長を追い落とす。政長を支援する管領・細川勝元や義廉と家督を争う斯波義敏が参戦すると、芋づる式に戦火が拡大。山名宗全陣営(西軍)と細川勝元陣営(東軍)に分かれ、京を舞台に約11年間争いを繰り広げる。
足利将軍家を確保した東軍が戦況を優位に進める。
赤松氏(東軍)がかつて山名氏に奪われた播磨・備前・美作を奪還する。
細川勝元(東軍)と対立する大内氏が西軍として参戦。
将軍の弟・義視が西軍に寝返る。
西軍の朝倉孝景が越前守護補任を条件に東軍に寝返り、東軍優位が決定的となる。
厭戦気分が広がり和睦が模索されるが、相続争いに決着の付かない畠山氏や、獲得した領土の返還・奪還を恐れる赤松氏ら、諸将の思惑が絡まり合い頓挫。
山名宗全、細川勝元が相次いで病死。
義政が将軍職を息子に譲り、義尚が第9代将軍に就任する。
西軍と東軍の和睦が成立。畠山義就が河内に退き、大内氏が領国に引き上げたことで西軍は解体される。
幕府と古河公方・成氏の和睦が成立。古河公方討伐のために下向した堀越公方・政知にとっては、はしごを外された格好となる。
応仁の乱で家中が分裂して争った斯波氏・畠山氏が勢力を落とした一方、ほとんどお家騒動のなかった細川氏は勢力を維持する。
朝倉孝景が越前守護を獲得。主家である斯波氏は代々の本拠地を失い、分国である尾張に本拠を移す。

将軍・義尚が幕府軍を率いて近江守護・六角氏の討伐へ向かうが、陣中で病没。
将軍・義尚の病没を受け、畠山政長や日野富子は義視の子・義材を支持。一方、細川政元は堀越公方・政知の次男である義澄を支持する。
足利義材が第10代将軍に就任する。
将軍・義材が近江守護・六角氏討伐へ出陣する。
斯波義寛が六角征伐で幕府軍の総大将を務める。
斯波氏・畠山氏ともに将軍・義材に接近することで、応仁の乱で失った勢力回復の兆しを見せる。
堀越公方・政知が病死。後継は三男・潤童子であったが、長男・足利茶々丸によって母諸共殺害され家督を奪われる。
将軍・義材が畠山基家討伐のため、幕府軍を率いて河内に出陣する。基家は、応仁の乱で河内に下った後も抵抗を続けていた畠山義就の子で、畠山政長の長年の政敵でもあった。
明応の政変_1493年
細川政元は、将軍・義材が河内出兵で京を離れた隙にクーデターを起こし、新将軍・義澄を擁立。多くの武将が新将軍方に付き、義材方の主立った勢力は後ろ盾の畠山政長くらいであった。政元は義材・政長の追討軍を派遣し、政長は自害。義材は逃れて各地を放浪し、将軍復帰の機会をうかがう。
幕府に派遣された伊勢宗瑞により堀越御所が攻め落とされる。茶々丸は逃亡。
第11代将軍・義澄にとっては茶々丸は兄であり、母と弟の仇でもあった。
畠山氏はこの後も、応仁の乱から続く義就系統の勢力と政長系統の勢力で争いを続け衰退。
斯波氏も、前将軍・義材と親密な関係にあったことから幕府内で孤立。また、今川氏の遠江侵攻を受け、衰退する。
甲斐に潜んでいた茶々丸が武田氏によって引き渡され、自害となる。
前将軍・義材が周防・大内氏のもとへ身を寄せる。

主な人物の家系図

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