系譜で辿る日本史

足利尊氏

(足利高氏)

室町幕府初代征夷大将軍

足利宗家第8代当主

足利将軍家の祖

氏族河内源氏義国流足利氏
生没1305年 - 1358年
位階正二位
官職権大納言 参議 武蔵守
幕府職征夷大将軍

河内源氏義国流足利氏本宗家の8代目棟梁。足利貞氏の次男として生まれる。共に鎌倉幕府を打倒した新田義貞は同族である。
正慶2年(1333年)に後醍醐天皇が伯耆国船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言、六波羅探題を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、高氏の名を尊氏(たかうじ)に改める。
後醍醐天皇の新体制である建武の新政下で、持明院統に近く冷遇されていた貴族西園寺公宗と北条高時の弟泰家の反乱計画発覚など政情不安が続く中、鎌倉方の残党北条時行が起こした中先代の乱により窮地に陥った弟・足利直義救援のため東下し、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布した。これを独自の武家政権を樹立する構えと解釈した天皇との関係が悪化、建武の乱が勃発した。箱根・竹下の戦いでは大勝するが、第一次京都合戦および打出・豊島河原の戦いで敗北し、一時は九州に都落ちしたものの、光厳上皇が尊氏に対し新田義貞追討の院宣を発給し、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧。光明天皇践祚を支援し、光明天皇より征夷大将軍に補任され新たな武家政権(室町幕府)を開いた。一度は京に降った後醍醐天皇は、すぐ後、吉野に脱出し南朝を創始することになった。
幕府を開いてのち、是円・真恵兄弟らへの諮問のもと、その基本方針となる『建武式目』を発布。幕政の初期は隠退して、弟・足利直義が事実上の指導者となった。保守派で鎌倉幕府の伝統的法令を取り入れた直義に対して、尊氏の側近である執事高師直は建武政権の先進的法令を取り入れた革新的な改革を行った。後醍醐天皇の崩御後は、その菩提を弔うため天竜寺を建立した。その後、尊氏・師直派と直義派との間で観応の擾乱が起こった。師直・直義の死により乱は終息したが、その後も南朝や実子の足利直冬など反対勢力の打倒に奔走し、晩年には政治にも手腕を発揮して統治の安定に努めた。

配偶者
主な祖先

源頼義

10親等祖先

平将門

15親等祖先

藤原宇合

20親等祖先

北条重時

4親等祖先

嵯峨天皇

18親等祖先

主な子孫

足利直冬

1親等子孫

足利義昭

7親等子孫

足利基氏

1親等子孫

足利義輝

7親等子孫

足利持仲

4親等子孫

男系子孫のみ表示

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