公家(堂上家一覧)

堂上家は、公家の家格の一つ。
御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿(三位以上、および四位を含む参議以上の者)になれる家柄。
江戸時代末期には137家があった。(ここでは、室町時代に断絶した洞院家を含めて138家を掲載)

ちなみに、堂上家以外の中流・下級貴族を地下家(地下人)と呼ぶ。

家名家紋家格家系本家門流家業極官概略主な人物
近衛家
摂関家藤原北家
御堂流
有職故実
三藐院流書道
摂政
関白
藤原北家嫡流であり、五摂家の筆頭。摂関家には近衛流と九条流があるが、近衛流は藤原忠通の四男、九条流は六男を祖としており、先に藤氏長者をつとめた近衛流が嫡流に当たるとされる。近衛基実
近衛前久
近衛文麿
鷹司家
摂関家藤原北家
御堂流
近衛有職故実
阿蘇・鹿島社伝奏
摂政
関白
近衛家の庶流。戦国時代に一度断絶するが、1579年(天正7年)織田信長の口添えにより再興した。鷹司兼平
鷹司信房
九条家
摂関家藤原北家
御堂流
有職故実
梅宮伝奏
摂政
関白
藤原北家嫡流の藤原忠通の六男である九条兼実が祖。兼実の兄には近衛家の祖・基実がいる。鎌倉幕府の摂家将軍も九条家から輩出した。九条兼実
二条家
摂関家藤原北家
御堂流
九条有職故実
歌道
摂政
関白
九条家の庶流。歴代当主をすべて家祖・二条良実の男系男子で紡いでいる。室町幕府3代将軍・足利義満の時代以降、足利将軍家および徳川将軍家から代々偏諱を受けるようになる。二条良実
一条家
摂関家藤原北家
御堂流
九条有職故実
香取社伝奏
摂政
関白
鎌倉時代前期、朝幕両方で権力を握った九条道家は、嫡男・九条教実、次男・二条良実、四男・一条実経を次々と摂関にし、五摂家の成立に繋がった。戦国時代には土佐一条氏も輩出している。一条実経
花山院家
清華家藤原北家
師実流
一条太政大臣藤原北家師実流の嫡流で、平安時代から鎌倉時代にかけて清華家として栄えた。藤原家忠を祖とし、その後代々高位の官職に就いた。家業は有職故実や雅楽に秀で、南北朝時代には二つの流れに分かれる。藤原家忠
大炊御門家
清華家藤原北家
師実流
一条和琴

装束
太政大臣初代・経実の子経宗は平治の乱で活躍し、左大臣まで昇進。以降、清華家として太政大臣に昇る家例を確立。中世から江戸期にかけて京都貴族社会で影響力を持ち続けた。藤原経実
三条家
清華家藤原北家
閑院流

装束
太政大臣三条家は藤原北家閑院流の嫡流で、清華家に属する公家の一族。鳥羽院政期には権勢を握った。太政大臣を輩出し、家風として有職故実に通じた。戦国時代に一時断絶したが、三条西家から養子を迎えて再興。三条実行
西園寺家
清華家藤原北家
閑院流
一条琵琶太政大臣院政期に権勢を握り、鎌倉時代には朝廷と幕府の間で活躍。特に西園寺公経の時代には所領を拡大し、政治的影響力を強めた。琵琶の家としても知られ、文化的にも貢献。戦国時代には伊予国に勢力を持ち、伊予西園寺氏へと発展。藤原通季
菊亭家
清華家藤原北家
閑院流
西園寺一条琵琶太政大臣藤原北家閑院流の庶流で、鎌倉時代末期に創設され。安土桃山時代には豊臣秀吉と親交を深め、江戸時代には家禄が1655石に達し、他の同格公家よりも財政的に恵まれていた。今出川兼季
徳大寺家
清華家藤原北家
閑院流
太政大臣初代実能が徳大寺を建立し家名の由来となった。清華家の地位を確立し、室町時代には徳大寺廃寺後も家名を維持。戦国期には当主実通が殺害されるなどの困難を経験したが、江戸時代を通じて公家として存続した。徳大寺実能
醍醐家
清華家藤原北家
摂関流
一条一条近衛大将
左大臣
一条家の支流で、延宝6年(1678年)に霊元天皇の詔で創設された清華家の一つ。始祖は醍醐冬基で、以降公卿を輩出し、左大臣や右大臣などを務めた者もいた。男系で皇室の血を継ぎ、明治維新までに8名の公卿を輩出した。醍醐冬基
久我家
清華家村上源氏太政大臣村上源氏の嫡流として名を成し、源氏長者や淳和奨学両院別当を多く輩出。鎌倉時代には源通親が朝廷で権勢を振るい、室町時代には源氏長者を独占。戦国時代に衰退したが、江戸時代に再興。源雅実
広幡家
清華家正親町源氏近衛大将
内大臣
江戸時代に正親町天皇の皇孫が臣籍に下ったことに始まる。初代・忠幸に始まり、内大臣まで昇る者が多く、朝廷で重きをなした。幕末には尊王攘夷派として活動し、明治維新までに8名の公卿を輩出した。広幡忠幸
洞院家
清華家藤原北家
閑院流
西園寺太政大臣洞院実雄
正親町三条家
大臣家藤原北家
閑院流
三条近衛内大臣三条家の庶流として鎌倉時代に始まる。光厳天皇の后を輩出し、内大臣に昇進。室町時代には足利将軍家と深い関係を築いた。家業は四箇の大事と有職故実。江戸中期には公積が尊皇家として活動するも、幕府に弾圧される。正親町三条公氏
三条西家
大臣家藤原北家
閑院流
三条歌道
二尊院・
廬山寺等伝奏
右大臣室町時代前期に正親町三条実継の子・三条西公時を祖として始まる。和歌や香道の継承で知られ、特に実隆は文学で著名。戦国時代には歌学を継承し、江戸時代を通じて歌道が家職的学問となった。幕末には季知が尊皇攘夷派として活躍した。三条西公時
中院家
大臣家村上源氏久我右大臣村上源氏久我家支流で、鎌倉時代に成立。歌人を多く輩出し、日記や家記を残した。中世後期は経済的困難に直面しつつも、加賀での一揆対処などに尽力。江戸時代には武家伝奏を務め、源氏学の発展に寄与した。中院通方
中山家
羽林家藤原北家
師実流
花山院一条近衛中将
内大臣
平安末期に創設された公家。初代・忠親が内大臣に昇ったが、その後は概ね正二位権大納言に留まった。戦国期には信長と交渉し功績を残す。幕末には倒幕に貢献する人材を輩出した。中山忠親
難波家
羽林家藤原北家
師実流
近衛蹴鞠近衛中将
大納言
平安後期の藤原忠教を祖とする公家。蹴鞠に秀でた一族であり、鎌倉時代には難波流を伝承した。南北朝時代に絶家となるが、江戸期に再興。幕末には日米修好通商条約に抗議するなどの事績を持つ。藤原忠教
飛鳥井家
羽林家藤原北家
師実流
難波一条歌道
蹴鞠
書道
近衛中将
大納言
藤原北家難波家の庶流で、鎌倉時代に蹴鞠と和歌で名を成した。雅経が祖で、鎌倉幕府とも関係を築いた。和歌や蹴鞠に通じた家系として後世に影響を与えた。飛鳥井雅経
野宮家
羽林家藤原北家
師実流
花山院一条近衛中将
大納言
藤原北家師実流花山院家の庶流として、後水尾天皇の叡旨で創設された公家。野宮定逸
今城家
羽林家藤原北家
師実流
花山院一条和歌近衛中将
大納言
藤原北家花山院流に属する公家。和歌と有職故実を家職とした。中山冷泉家として始まり、江戸時代に家名を今城に改めた。中山冷泉為親
松木家
羽林家藤原北家
中御門流
一条楽道
内大臣藤原北家中御門流の嫡流。室町時代に家名を中御門から松木に改めた。管弦を家芸とする。江戸時代には宗条の娘が東山天皇の母となったため、系譜は皇室・旧皇族に繋がる。藤原宗俊
持明院家
羽林家藤原北家
中御門流
近衛能書
神楽
近衛中将
大納言
持明院家は平安後期に成立し、藤原北家中御門流に属する公家の一族。持明院統の名の由来となり、鎌倉から室町時代にかけては有職故実や能書を家業とした。戦国期には持明院流を起こし、江戸時代には武家伝奏を務めるなど、重要な地位を占めた。藤原基頼
園家
羽林家藤原北家
中御門流
持明院一条琵琶
生花
近衛中将
准大臣
鎌倉時代に創設され、雅楽や生花を家業とする。園基氏が生花青山流を開き、室町時代に「青山」の号を賜った。江戸時代には後水尾天皇の外祖父となり、宮中で影響力を持つ。園基氏
石野家
羽林家藤原北家
中御門流
持明院近衛神楽近衛中将
中納言
藤原北家持明院家の支流で、江戸時代に権大納言基時の次男・基顕を祖として始まる。家学は神楽を伝え、明治維新まで公家として続いた。石野基顕
高野家
羽林家藤原北家
中御門流
持明院近衛神楽近衛中将
大納言
藤原北家中御門流持明院家の庶流。祖は持明院基定の三男である高野保春。高野保春
六角家
羽林家藤原北家
中御門流
持明院一条近衛中将
参議
江戸時代に成立した公家の一族。初代は波多基維で、2代目益通が家名を六角に改めた。波多基維
壬生家
羽林家藤原北家
中御門流
一条近衛中将
中納言
藤原北家中御門流持明院家の支流で、江戸時代初期に創立。幕末には七卿落ちに関与し、明治維新後は参謀として戊辰戦争に従軍した。葉川基起
石山家
羽林家藤原北家
中御門流
壬生一条書道近衛中将
大納言
藤原北家中御門流の壬生家から派生した公家の一族。居所は新在家西側であった。石山師香
東園家
羽林家藤原北家
中御門流
持明院神楽近衛中将
大納言
園基任の次男・基教を祖とし、江戸時代には権大納言を極官とした。家業は神楽道で、菩提寺は松林院。東園基教
上冷泉家
羽林家
藤原北家
御子左流
鷹司歌道
蹴鞠
近衛中将
大納言
室町時代に冷泉家が分立し成立。明治維新後、公家のほとんどは東京へ移住したが、上冷泉家は京都御所の殿掌に任じられたため京都に残る。そのため上冷泉屋敷は現在まで京都に残る唯一の公家屋敷となっている。冷泉為相
下冷泉家
羽林家
藤原北家
御子左流
九条歌道近衛中将
大納言
室町時代に冷泉家が分立し成立。足利将軍家と特別な関係を築き栄えたが、応仁の乱頃より室町幕府の衰退と共に衰退した。冷泉持為
藤谷家
羽林家
藤原北家
御子左流
上冷泉鷹司歌道近衛中将
大納言
藤原北家御子左流の庶流で、江戸時代初期に冷泉為満の次男・為賢を祖として創家。江戸中期には分家も生じ、所領は200石。藤谷為賢
入江家
羽林家
藤原北家
御子左流
上冷泉鷹司歌道非参議藤谷家の支流にあたる公家で、貞享4年(1684年)に創設された。家格は羽林家で、江戸時代には30石3人扶持を受けた。入江相尚
水無瀬家
羽林家藤原北家
隆家流
和歌近衛中将
大納言
家名の由来は、後鳥羽上皇の近臣であった3代・信成が、上皇の遺言により水無瀬離宮跡を託されたことに由来する。信成はそこに御影堂(水無瀬神宮)を建立し上皇の菩提を弔い、歴代の当主はこの水無瀬神宮の宮司を務めた。藤原親信
水無瀬信成
水無瀬兼成
町尻家
羽林家藤原北家
隆家流
水無瀬近衛中将
中納言
水無瀬流の庶流。祖父にあたる戦国武将 福島正則が開いた妙心寺海福院を菩提寺とする。町尻具英
桜井家
羽林家藤原北家
隆家流
水無瀬近衛中将水無瀬流の庶流。江戸時代前期に、水無瀬兼俊の子・兼里が後水尾天皇の宣旨により分家して設立。桜井兼里
桜井氏福
山井家
羽林家藤原北家
隆家流
水無瀬鞍の製造非参議水無瀬家の庶流である桜井兼里の次男・山井兼仍を祖とする。山井兼仍
七条家
羽林家藤原北家
隆家流
水無瀬近衛中将
参議
水無瀬流の庶流。権中納言水無瀬氏成の子・隆脩を祖とする。七条隆脩
滋野井家
羽林家藤原北家
閑院流
三条近衛神楽近衛中将
大納言
藤原北家閑院流三条家の支流として平安時代末期に創設。高倉天皇の笛の師匠を務めるなど文化的貢献があり、鎌倉時代には権大納言を輩出。江戸時代には一時断絶するが、再興後は有職故実家としても知られる。滋野井実国
河鰭家
羽林家藤原北家
閑院流
三条神楽近衛中将
大納言
藤原北家閑院流滋野井家の支流として平安末期に成立。有職故実を家業とし、戦国期に中絶するも江戸期に再興。幕末には錦旗奉行を務めた。藤原公清
阿野家
羽林家藤原北家
閑院流
三条近衛神楽近衛中将
大納言
藤原北家閑院流滋野井家の庶流。南朝に仕え、南北朝合一後も公家社会に留まる。江戸時代は極位極官を得るも、家系は一時中絶。後に再興された。阿野公佐
橋本家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺一条近衛中将
大納言
鎌倉時代後期に西園寺公相の四男・実俊を祖とする公家。雅楽や有職故実に関する家職を持ち、笛が家業として続いた。幾度か中絶しつつも再興を繰り返し、江戸時代には後桜町上皇や仁孝天皇に仕え、朝廷に貢献した。橋本実俊
梅園家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺一条近衛中将
中納言
藤原北家閑院流橋本家の庶流で、江戸時代初期に創立された公家。寛文3年(1663年)から文久3年(1863年)まで武家昵近衆を務めた。梅園実清
清水谷家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺一条能書

能楽
神楽
近衛中将
大納言
西園寺公経の次男・実有を祖とし、鎌倉時代に創設される。家業は書道や能楽で、幕末期には公考が箱館府知事を務めた。一条実有
正親町家
羽林家藤原北家
閑院流
洞院一条近衛中将
大納言
鎌倉時代後期から続く公家。家祖は正親町実明で、家業は有職故実と雅楽。江戸時代中期には正親町公通が正親町神道を創設。幕末には尊皇攘夷派として活躍した。正親町実明
小倉家
羽林家藤原北家
閑院流
洞院近衛神楽近衛中将
大納言
藤原北家閑院流の庶流として鎌倉時代に成立。戦国時代に一度断絶するも再興。江戸時代、一宮を巡る小倉事件が発生。小倉公雄
室町家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺近衛神楽
和琴
近衛中将
大納言
鎌倉時代中期に西園寺家の庶流として成立。室町時代には足利将軍家の影響で「四辻」と改称。雅楽を家業とし、江戸時代には後水尾天皇の典侍を輩出するなど、朝廷とも関わりを持った。室町実藤
園池家
羽林家藤原北家
閑院流
三条近衛近衛中将
大納言
江戸時代の寛永期に創設された。もとは藤原北家四条流だが、正親町三条家の一門となった。園池宗朝
花園家
羽林家藤原北家
閑院流
三条二条琵琶近衛中将
大納言
藤原北家閑院流正親町三条支流の公家で、室町時代末期に成立した。家学は琵琶。江戸時代には150石の家禄を有した。三条実教
押小路家
羽林家藤原北家
閑院流
三条漢詩近衛中将
大納言
三条西家の庶流である押小路家は、寛文年間に三条西公勝の次男・公音が創設。歌道の三条西家から派生したが、漢詩の家柄としても知られた。幕末期には山城国に領地を持つ。押小路公音
武者小路家
羽林家藤原北家
閑院流
三条歌道近衛中将
准大臣
江戸時代前期に三条西家から分かれた公家。初代公種は歌人としても知られる。実陰は霊元上皇の寵愛を受け、歌壇で活躍。孫の実岳も二条派宮廷歌人として名高い。武者小路公種
高松家
羽林家藤原北家
閑院流
三条九条歌道近衛中将
大納言
藤原北家閑院流の支流で、江戸時代中期に創設された公家。有職故実や和歌を家業とした。高松重季
姉小路家
羽林家藤原北家
閑院流
三条九条近衛中将
大納言
平安時代末期に左大臣三条実房の次男・公宣が創設。室町時代初期に一度絶家も、江戸時代に復興。幕末には尊皇攘夷派として活動し、朔平門外の変で当主が暗殺された。姉小路公宣
風早家
羽林家藤原北家
閑院流
三条九条茶道近衛中将
中納言
藤原北家閑院流の支流である公家の一族。江戸時代に茶道を宮中で奉仕し、香道風早流の家元も務めた。風早実種
山本家
羽林家藤原北家
閑院流
三条九条近衛中将
大納言
江戸時代前期に参議・山本勝忠が後水尾天皇の勅命で創設。幕末には玉松真弘が国学者として活躍した。山本勝忠
大宮家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺九条近衛中将
中納言
祖の季衡が光厳天皇の外叔父として右大臣に昇進。後に一時断絶するも、季光により再興した。大宮季衡
裏辻家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺近衛近衛中将
参議
藤原北家閑院流正親町家の支流。家禄は150石で、屋敷は今出川に所在。権大納言正親町季秀の次男・季福が始祖。裏辻季福
西四辻家
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺鷹司近衛中将藤原北家閑院流の四辻家支流に属する公家。幕末には勤皇派として活動した。西四辻公碩
藪家
羽林家藤原南家
高倉流

藤原北家
閑院流
西園寺一条神楽
近衛中将
大納言
藤原南家高倉流の公家で、一時断絶したのち戦国期に藤原北家閑院流四辻家の支流として再興。江戸時代には複雑な経緯を経て藪家に改名。朝廷内での地位向上を図るが、寛永期創設の新家の扱いとされ昇進が制限された。藤原範季
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺一条近衛中将
中納言
権大納言・藪嗣良の三男・中園季定を祖とする公家の一族。閑院流四辻支流として扱われた。中園季定
羽林家藤原北家
閑院流
西園寺鷹司近衛中将
中納言
江戸時代の延宝4年(1676-1677年)、参議中園季定の三男・季起が一家を興し、羽林家の家格を得た。高丘季起
堀河家
羽林家藤原北家
長良流
高倉近衛中将
中納言
明治維新の功臣岩倉具視の実家としても知られる。
権大納言・高倉永家の四男で権中納言・水無瀬兼成の養子となっていた親具は、養父に実子が生まれたために水無瀬家を出ることになり、徳川家康のもとに身を寄せた。その長男・康胤は、後に家康の奏上で朝廷より新たな堂上家を建てることを許され、堀河家を創設した。
堀河親具
堀河康親
樋口家
羽林家藤原北家
長良流
高倉近衛中将
大納言
高倉家の庶流。権大納言・高倉永家の四男・堀河親具の次男である樋口信孝を祖とする。樋口信孝
四条家
羽林家藤原北家
魚名流
一条
包丁
近衛中将
大納言
平安後期に成立した藤原北家魚名流の一族。家祖・顕季は白河院政下で公卿に昇進。家業は庖丁道で、四条流の料理法を確立。南北朝時代には南朝に仕えた。藤原隆季
鷲尾家
羽林家藤原北家
魚名流
四条九条華道
神楽
膳羞
近衛中将
大納言
藤原北家四条流の公家で鎌倉時代中期に成立。文明3年(1471年)に一度断絶したが、長享2年(1488年)に再興。再び断絶後、江戸時代初期に再度再興され、幕末には戊辰戦争で功績を挙げた。鷲尾隆良
西大路家
羽林家藤原北家
魚名流
四条近衛筆道近衛中将
大納言
祖は四条隆綱。一時中絶するも、広橋総光の子・隆郷が再興し、宝永5年(1708年)に公卿となる。以後、幕末まで代々が公卿になっている。四条隆綱
油小路家
羽林家藤原北家
魚名流
西大路九条近衛中将
大納言
藤原北家四条流西大路家の庶流で、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿・隆蔭を家祖とする。隆蔭の後、江戸初期に再興された。油小路隆蔭
山科家
羽林家藤原北家
魚名流
四条近衛
装束衣紋有職故実
近衛中将
大納言
平安時代末期に成立し、後白河法皇の近臣として勢力を持った。戦国時代には言国が『言国卿記』、言継が『言継卿記』という日記を残し、重要な史料となっている。山科教成
山科言継
櫛笥家
羽林家藤原北家
魚名流
四条近衛近衛中将
内大臣
藤原北家四条流の公家一族。戦国時代に四条家から分かれ、江戸時代には後水尾天皇や東山天皇の後宮に女官を輩出した。四条隆憲
八条家
羽林家藤原北家
魚名流
四条近衛近衛中将
大納言
江戸時代に成立した藤原北家四条家の庶流。内大臣・櫛笥隆賀の二男・八条隆英を祖とする。八条隆英
岩倉家
羽林家村上源氏久我一条近衛中将
大納言
僧侶となっていた初代・具堯が還俗し成立した。江戸時代中期、恒具と尚具は尊皇家として活動したが、幕府に弾圧され失脚。岩倉具視は幕末に活躍し、維新で重要な地位を占めた。岩倉具堯
岩倉具視
六条家
羽林家村上源氏久我近衛中将
内大臣
鎌倉時代に久我通光の子である六条通有を家祖とし成立。有房が内大臣に昇進するなど、朝廷で活躍した。戦国時代に一度中絶するが、江戸時代に再興された。六条通有
梅渓家
羽林家村上源氏久我鷹司近衛中将
中納言
村上源氏久我家の庶流。慶長4年(1599年)に久我家当主であった祖父・および父が受けた処分により久我家を継承できず、新たに創設された。梅渓季通
久世家
羽林家村上源氏久我近衛中将
大納言
村上源氏久我家の分流。江戸時代に200石を領し、近衛府で役職を務める。代々権大納言に昇進し、幕末には公武合体派として活動した。久世通式
東久世家
羽林家村上源氏久我近衛中将
中納言
江戸時代初期に後水尾天皇の勅許で成立した。家業は有職故実で、幕末には尊皇攘夷運動に関与。幕府滅亡後、明治天皇から正二位を追贈された。久我通廉
千種家
羽林家村上源氏久我一条近衛中将
大納言
江戸時代に岩倉家から分かれた公家。家業は有職故実と和歌に通じ、有能、有維、有政らが議奏や武家伝奏として朝廷で重職を担った。幕末には和宮降嫁に尽力し、後に明治政府に仕える。千種有能
植松家
羽林家村上源氏久我一条生花近衛中将
中納言
華道「日本生花司 松月堂古流」の家元として知られ、代々家元を継承し続けた。植松雅永
愛宕家
羽林家村上源氏久我近衛中将
大納言
村上源氏中院庶流の公家。幕末には通致・通旭父子が朝廷刷新に関与した。愛宕通福
庭田家
羽林家宇多源氏神楽近衛中将
大納言
平安時代の左大臣・源雅信の末裔。代々の庭田家の女子は皇室及び伏見宮家に仕え、後花園天皇・後柏原天皇などの生母となった。また、戦国時代には本願寺顕如の生母を出した事から、本願寺(一向一揆)と諸大名の仲介役も行った。庭田経資
庭田幸子
庭田朝子
綾小路家
羽林家宇多源氏庭田神楽近衛中将
大納言
平安時代の左大臣・源雅信の末裔で、綾小路信有を祖とする。兄は庭田家の祖、庭田経資。庭田家同様、雅楽(特に箏・笛・篳篥など)を家職とし、以降は雅楽の師範家として朝廷に仕えることとなる。室町後期に一度断絶するが、慶長18年(1613年)に五辻家から綾小路高有を迎え家名再興となる。綾小路信有
綾小路有長
大原家
羽林家宇多源氏庭田神楽近衛中将
中納言
江戸時代に創設された、宇多源氏庭田家の庶流。幕末には大原重徳が尊攘派公卿として活躍した。大原栄顕
大原重徳
甘露寺家
名家藤原北家
勧修寺流
九条
儒道
内大臣鎌倉時代に吉田家から分かれ、南北朝時代に甘露寺を名乗る。室町時代には儒学や雅楽を家業とし、応永29年(1422年)には当主・兼長が従一位に叙される。藤原為輔
清閑寺家
名家藤原北家
勧修寺流
甘露寺一条内大臣南北朝時代に創立された藤原北家勧修寺流の一族。室町時代から戦国時代に中絶したが、江戸時代初期に再興。再興初代の共房は従一位内大臣に昇進。江戸時代には忠臣蔵関連で知られた熙定がいた。清閑寺資房
勧修寺家
名家藤原北家
勧修寺流
一条儒道内大臣藤原北家勧修寺流の一族で、鎌倉時代に分かれた三流の一つ。戦国期には天皇の生母を輩出し、影響力を持った。経顕の代から「勧修寺」の号を称した。勧修寺経顕
坊城家
名家藤原北家
勧修寺流
勧修寺九条文章道大納言藤原北家勧修寺流の支流で、鎌倉時代に創設された。安土桃山時代に再興され、江戸時代には180石の家禄を持つ。坊城俊定
中御門家
名家藤原北家
勧修寺流
勧修寺二条管弦大納言藤原北家勧修寺流の支流で、鎌倉時代後期に成立。室町時代には故実典礼を維持し、江戸時代には院執権や議奏を務めた。幕末には倒幕運動に参加し、王政復古に貢献。中御門経継
万里小路家
名家藤原北家
勧修寺流
近衛儒学
文筆
内大臣鎌倉時代中期に創設された勧修寺流の支流。後醍醐天皇に仕えた宣房や藤房、季房兄弟が著名で、家業は儒学・文筆に秀でた。万里小路資通
葉室家
名家藤原北家
勧修寺流
九条善光寺伝奏准大臣顕隆を家祖とし、平安時代に白河法皇の近臣として活躍。大剛の人である光頼や、伏見上皇院政執権を務めた頼親などが続く。江戸時代には儒学と有職故実を家業とした。藤原顕隆
堤家
名家藤原北家
勧修寺流
甘露寺鷹司中納言藤原北家勧修寺流から分かれた公家の一族で、江戸時代初期に創設された。家名は延宝6年(1678年)に改称した。中川貞長
池尻家
名家藤原北家
勧修寺流
甘露寺一条大納言藤原北家勧修寺流清閑寺の庶流。始祖は内大臣・清閑寺共房の次男、池尻共孝。江戸時代の石高は50石で、菩提所は報恩寺。池尻共孝
梅小路家
名家藤原北家
勧修寺流
甘露寺一条大納言藤原北家勧修寺流の庶流で、清閑寺共房の三男定矩が始祖。江戸時代には蔵米50石を受ける名家として活動した。梅小路定矩
穂波家
名家藤原北家
勧修寺流
勧修寺九条中納言藤原北家勧修寺流の庶流。初代・経尚以降、石高30石であったが、戊辰戦争で功績を挙げたため、賞典禄100石を賜る。幕末から明治初期にかけて、錦旗奉行や元老院議官を務めた。穂波経尚
芝山家
名家藤原北家
勧修寺流
勧修寺近衛大納言初代・宣豊を皮切りに歌道を家業とした。家督相続は養子が多く、直系による父子相続は稀であった。芝山宣豊
岡崎家
名家藤原北家
勧修寺流
勧修寺二条大納言藤原北家高藤流中御門家の庶流。初代宣持が「岡崎」を称し、江戸時代には蔵米30石を有した。菩提所は宝憧寺で、住居は梨木町にあった。岡崎宣持
日野家
名家藤原北家
真夏流
近衛儒道
歌道
左大臣山城国日野に法界寺を建立し、儒学と文章を家業としながら朝廷に仕えた。鎌倉時代には親幕派の公家として勢力を持ち、室町時代には足利将軍家と婚姻関係を築き、応仁の乱にも関与するなど権勢を振るった。藤原真夏
烏丸家
名家藤原北家
真夏流
日野一条和歌内大臣室町時代に始まり、歌道で朝廷に仕える。江戸期には954石の所領を持ち、特に光広が宮廷文化で活躍。幕末の光徳は尊皇攘夷派として活動し、戊辰戦争で功績を上げた。烏丸豊光
柳原家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛文筆准大臣藤原北家日野家の分流で、鎌倉時代末期に創設された。代々紀伝道を家業とし、文章博士に任ぜられたが、戦国時代以降は所領の経営に注力。江戸時代には武家伝奏を務め、幕末には幕府との交渉で活躍した。柳原資明
広橋家
名家藤原北家
真夏流
近衛文筆内大臣鎌倉時代初期に広橋頼資が創設した藤原北家日野流の公家。室町から江戸時代にかけ幕府との折衝役を務め、特に江戸時代には武家伝奏を輩出。中世からの写本は東洋文庫に収蔵されている。広橋頼資
竹屋家
名家藤原北家
真夏流
広橋近衛挿花中納言室町時代に権大納言広橋仲光の子・兼俊を祖とし成立。江戸時代に広橋総光の次男・光長の代に中興する。竹屋兼俊
日野西家
名家藤原北家
真夏流
広橋近衛中納言南北朝時代末期に日野家から分かれた公家。資国が創始し、娘が後小松天皇の中宮となり、称光天皇の生母となった。江戸時代に再興を試みるも旧家としては認められず、新家として活動した。日野西資国
外山家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛大納言藤原北家日野家の支流で、江戸時代中期に成立。八代当主・光輔は明治維新後、政府高官の洋風化に反対してクーデターを計画したが露見して切腹を命じられた(二卿事件)。外山光顕
豊岡家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛中納言江戸時代前期に権大納言・日野弘資の三男・有尚を祖とし成立。幕府5代将軍徳川綱吉の側室となった新典侍を輩出した。豊岡有尚
裏松家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛大納言室町時代に日野家から分かれた公家で、足利将軍家の御台所を輩出。江戸時代に再興され、光世が有職故実家として大内裏の再建に貢献。裏松資清
勘解由小路家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛儒道大納言藤原北家日野流の分家で、正保元年(1644年)に烏丸光広の次男・資忠が創立。勘解由小路資忠
三室戸家
名家藤原北家
真夏流
日野近衛大納言江戸時代前期に権中納言・三室戸誠光を祖として成立。六代・陳光の息子・和光は、伊勢神宮大宮司を務めた。三室戸誠光
北小路家
名家藤原北家
真夏流
日野参議江戸時代に三室戸誠光の次男・徳光を祖とし成立。明治維新後、八代・随光は神祇官判事、神祇大祐、神宮大宮司、明宮嘉仁親王祗候などを歴任した。北小路徳光
平松家
名家桓武平氏西洞院近衛大納言桓武平氏西洞院庶流の公家で、慶長年間に創設。江戸時代は右衛門督や院伝奏を務め、所領は200石。重要文化財『兵範記』を含む文書を京都大学に寄贈した。平松時庸
長谷家
名家桓武平氏西洞院近衛中納言参議・西洞院時慶の五男・忠康を祖として寛永期に創設。後水尾天皇の側近だった西洞院時直と平松時庸は忠康の実兄、交野家の祖・交野時貞は実弟にあたる。長谷忠康
交野家
名家桓武平氏西洞院近衛中納言参議・西洞院時慶の末子・交野時貞を祖として慶安期に創設された。後水尾天皇の側近だった西洞院時直、平松時庸、長谷家の祖となった長谷忠康はいずれも時貞の兄にあたる。交野時貞
富小路家
半家称・
藤原北家
御堂流
近衛和歌
俳諧
非参議戦国時代に富小路俊通が九条家諸大夫として地位を確立。正四位上内務卿の位を得て公卿に列したが、出自については不明瞭であった。富小路俊通
高倉家
半家藤原北家
長良流

有職故実
装束
大納言高倉の家名は、邸宅が京都の高倉にあったことによる。代々朝廷の装束を担当し、衣紋道(装束に関する知識や技術を体系化したもの)を家職とした。
高倉家伝来の古文書・典籍・装束などは「有職文化研究所(旧:高倉文化研究所)」に所蔵されている。
高倉永季
高倉永家
高倉永相
高倉永祜
白川家
半家花山源氏神祇伯非参議花山天皇の末裔である花山源氏。祭祀を司る神祇官の長官である「神祇伯」を代々世襲した。
室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた吉田家が吉田神道を確立し、神祇管領長上を称して全国の神社の大部分を支配するようになり、白川家の権威は衰退した。
延信王
五辻家
半家宇多源氏神楽非参議平安時代の左大臣・源雅信の末裔。家業は神楽。
家祖の源時方は五位少将まで昇進するも若くして死去。子孫は代々五位止まりであった。鎌倉時代初期、仲兼の頃より五辻の家号を称するようになった。仲兼以降も蔵人や北面武士を務める地下家だったが、室町時代末期に諸仲が従三位に叙せられ、堂上家に加わる。
源時方
五辻諸仲
慈光寺家
半家宇多源氏五辻非参議五辻家の庶流。五辻遠兼の次男・慈光寺仲清を祖とし、中務権大輔・慈光寺冬仲の代で堂上家に列せられる。慈光寺仲清
竹内家
半家清和源氏近衛弓箭

和歌
非参議清和源氏平賀氏の庶流。弓箭や和歌を家業とし、15世紀には摂津国や山城国で荘務を担当。竹内季治の時代に堂上家に加えられたが、織田信長の怒りを買い斬首された。竹内信治
西洞院家
半家桓武平氏近衛大納言桓武平氏の嫡流。平安末期に平氏政権で権勢を誇り、江戸時代まで続いた。蔵人や弁官を多く輩出し、日記執筆でも知られる。一時断絶するが再興され、江戸時代には尊皇家としても活動した。西洞院行時
石井家
半家桓武平氏西洞院近衛中納言桓武平氏高棟王流の公家で、江戸時代に成立。東福門院に仕えた石井局に由来し、行豊が祖となる。石井行豊
高辻家
半家菅原氏一条紀伝道
文章博士
大納言菅原氏嫡流。平安時代から学問に尽力し、文章博士や天皇の侍読を家業とした。戦国時代に一時中絶するが、江戸期に再興された。菅原是綱
五条家
半家菅原氏高辻一条相撲大納言菅原氏高辻庶流の公家で、鎌倉時代から相撲の司家として活動。代々文章博士を務め、詩文や紀伝道も家業とした。江戸時代には相撲の司家としての地位が衰退したが、相撲節会の運営を担った。五条高長
東坊城家
半家菅原氏高辻一条紀伝道大納言菅原氏五条家の支流で、鎌倉時代に始まる公家の一族。紀伝道と詩文を家業とし、文章博士や天皇の侍読を務めた。幕末には武家伝奏を務めたが、政治的対立で永蟄居に処された。東坊城茂長
唐橋家
半家菅原氏九条紀伝道
儒道
文章博士
大納言家名は洛中の唐橋村を家領としたことを由来とする。菅原氏の嫡流とみなされた時代もあり、氏長者である北野の長者を多数輩出していたが、室町時代に家司を務める九条家との軋轢により衰退。菅原在良
清岡家
半家菅原氏高辻一条儒学参議菅原氏五条家の庶流として江戸時代に成立した公家。儒学を家業とし、文章博士や大学頭などに任じられることが多かった。清岡長時
桒原家
半家菅原氏高辻一条儒学中納言江戸時代の家禄は30石で、江戸期の公家の中でも最も困窮していた家の一つとして知られる。当主がたった一人の従者と揉め事を起こし、口論の挙句、屋敷内で殺害してしまう事件を起こすなど、家運は振るわなかった。桒原長義
北小路家
半家大江氏近衛文学非参議大江氏の嫡流で、北小路俊宣を祖とする。地下家から弘化4年(1847年)に堂上家に昇格。江戸期には近衛家の諸大夫や聖護院門跡の坊官を務め、文学を家業とした。北小路俊宣
舟橋家
半家広澄流
清原氏
近衛明経博士非参議広澄流清原氏の嫡流。明経道や儒学に秀で、天皇の侍読や大外記を世襲。室町時代には公卿に列し、江戸時代には堂上家として認められた。舟橋秀賢
伏原家
半家広澄流
清原氏
舟橋九条明経道非参議舟橋家から分かれた公家で、江戸時代に創設。家業は明経道・儒教で、幕末には宣明が明治天皇の侍読を務めた。伏原賢忠
澤家
半家広澄流
清原氏
舟橋九条非参議広澄流清原氏を祖とする公家で、江戸時代中期に成立した。明経道と儒道を家職とし、九条家の家札を持つ。幕末には尊皇攘夷派として活躍し、為量と宣嘉が戊辰戦争で戦功を挙げた。澤忠量
藤波家
半家大中臣氏一条伊勢祭主
神祇大副
非参議大中臣氏嫡流で、伊勢祭主と神祇大副を世襲した公家。江戸時代に一度地下人に転落するが復帰し、家名を藤波に定める。幕末には藤波教忠が日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿列参事件に参加した。中臣常盤
吉田家
半家卜部氏近衛神祇道
吉田社職
非参議家祖・吉田兼煕が足利義満に土地を譲渡し、以後神祇職を通じて勢力を拡大。5代・兼倶は唯一神道を創始し、神祇伯の白川家と争いながら神社支配を強化。織田信長の推挙で堂上家となり、江戸時代に神祇管領長上を称し、全国の神社に影響力を持った。吉田兼煕
萩原家
半家卜部氏吉田近衛神祇道
豊国社務
非参議卜部氏吉田家の庶流である萩原家は、慶長年間(1596-1615)に創家。神祇職を家業とし、摂家並の家禄を持つ半家。豊臣秀吉の推挙で豊国神社の社務を世襲。幕末には1000石の所領を保持し、明治維新を迎える。萩原兼従
錦織家
半家卜部氏吉田近衛非参議錦織家は卜部氏を源流とする公家。幕末には廷臣八十八卿列参事件に関与した。錦織従久
藤井家
半家卜部氏鷹司神祇道
平野社務
非参議卜部氏の流れを汲む公家。神祇大副・卜部兼忠の次男を祖とし、江戸時代に藤井と改姓。卜部兼国
土御門家
半家阿倍氏天文道
暦道
陰陽道
陰陽頭
非参議左大臣・阿倍内麻呂の末裔 安倍晴明は平安時代中期に陰陽頭となる。その子孫も代々陰陽頭を務め、陰陽道・天文道・暦道をもって朝廷に仕えた。安倍晴明
安倍有世
倉橋家
半家
阿倍氏
土御門陰陽道非参議土御門家の庶流。慶長17年(1612年)、陰陽頭(従三位・非参議)土御門久脩の次男・泰吉が分家して「倉橋」を称したのに始まる。「倉橋」とは遠祖・阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の名にちなんだとされる。初代泰吉以降、代々陰陽道を家業とした。倉橋泰吉
錦小路家
半家丹波氏近衛医道非参議丹波氏嫡流に属する公家で、室町時代に創設。江戸時代に医道を家業とした。幕末には尊皇攘夷運動に関与し、八月十八日の政変で失脚。錦小路幸基

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