| 1 | 中臣鎌足 | ??? – 669 | 大化の改新の功績により、藤原姓を与えられる。 |
| 2 | 中臣意美麻呂 | 669 – ??? | 中臣鎌足の娘を娶り、一時藤原姓を名乗る。 |
| 3 | 藤原不比等 | ??? – 720 | 宣旨により、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗ることができるとされた。 |
| 4 | 藤原房前 | 720 – 737 | 藤原北家。不比等の子である藤原四兄弟体制が確立。 |
| 5 | 藤原武智麻呂 | 737 | 藤原南家。藤原四兄弟が相次いで天然痘で亡くなる。 |
| 6 | 藤原豊成 | 737 – 757 | 藤原南家。父・武智麻呂から継承。橘奈良麻呂の乱に関係し失脚。 |
| 7 | 藤原仲麻呂 | 757 – 764 | 藤原南家。兄・豊成を追い落とすが、藤原仲麻呂の乱で死亡。 |
| 8 | 藤原豊成 | 764 – 766 | 藤原仲麻呂の乱後に復帰。 |
| 9 | 藤原永手 | 766 – 771 | 藤原北家。仲麻呂政権下で抜擢され昇進するが、藤原仲麻呂の乱では袂を分かつ。 |
| 10 | 藤原良継 | 771 – 777 | 藤原式家。藤原仲麻呂の乱では部隊を率いて仲麻呂を討伐。 |
| 11 | 藤原魚名 | 778 – 782 | 藤原北家。兄・永手の死去後にその地位を継承。のちに、突如大宰府に左遷され失脚。 |
| 12 | 藤原田麻呂 | 782 – 783 | 藤原式家。光仁天皇の即位に伴い、それを擁立した藤原良継らによる式家主導体制が確立。 |
| 13 | 藤原是公 | 783 – 789 | 藤原南家。魚名・田麻呂が相次いで死去し、急速に昇進を果たす。 |
| 14 | 藤原継縄 | 789 – 796 | 藤原南家。従兄弟・是公の死去により継承。 |
| 15 | 藤原内麻呂 | 796 – 812 | 藤原北家。平城天皇の信任を背景に昇進。藤原北家嫡流の地位は永手の家系より移る。 |
| 16 | 藤原園人 | 812 – 818 | 藤原北家。嵯峨天皇のもとで積極的な政策提言を行うが、次代・冬嗣によりその多くは転換された。 |
| 17 | 藤原冬嗣 | 818 – 826 | 藤原北家。園人没後、藤原葛野麻呂との争いを制して藤氏長者となる。 |
| 18 | 藤原緒嗣 | 826 – 843 | 藤原式家。長男の死去や承和の変での中納言・藤原吉野の失脚で式家全体の勢力が衰える。 |
| 19 | 藤原良房 | 843 – 872 | 藤原北家。冬嗣の子で、史上初の摂政となる。以降、氏長者の地位は藤原北家で独占される。 |
| 20 | 藤原基経 | 872 – 891 | 冬嗣の孫。史上初の関白とされる。 |
| 21 | 藤原良世 | 891 – 897 | 兄・良房を支えて重用される。 |
| 22 | 藤原時平 | 897 – 909 | 基経の子。若くして栄達するが、39歳で死去。左遷させた菅原道真の祟りと恐れられた。 |
| 23 | 藤原忠平 | 909 – 949 | 兄・時平の死去により継承。長く政権の座にあった。 |
| 24 | 藤原実頼 | 949 – 970 | 忠平の長男。天皇の外戚となることができず、逆に外戚の地位を獲得した弟・師輔の系統が次第に嫡流筋となる。 |
| 25 | 藤原伊尹 | 970 – 972 | 妹の安子が産んだ冷泉天皇・円融天皇の即位に伴って栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰める。 |
| 26 | 藤原頼忠 | 972 – 974 | 実頼の嫡男。父の代に続き、外戚の地位獲得はならなかった。 |
| 27 | 藤原兼通 | 974 – 977 | 兄・伊尹の死後、弟・兼家との後継争いを制する。 |
| 28 | 藤原頼忠 | 977 – 986 | *再任 |
| 29 | 藤原兼家 | 986 – 990 | 次兄・兼通のもとでは冷遇される。寛和の変で花山天皇を出家に追い込み、孫の一条天皇を即位させ外戚として権力を握る。 |
| 30 | 藤原道隆 | 990 – 995 | 父・兼家の地位を継承するが、43歳で病没。 |
| 31 | 藤原道兼 | 995 | 兄・道隆が病没すると後任の関白に就任。しかしほどなくして病没し、世に「七日関白」と呼ばれた。 |
| 32 | 藤原道長 | 995 – 1017 | 甥・伊周との後継争いを制し、藤原氏全盛期を築く。 |
| 33 | 藤原頼通 | 1017 – 1064 | 平等院鳳凰堂を造営し、摂関家の時代を築いたが、後三条天皇の即位で権勢が衰退した。 |
| 34 | 藤原教通 | 1064 – 1075 | 急速に昇進し関白となるが、兄頼通との関係悪化で摂関家の衰退を招く。 |
| 35 | 藤原師実 | 1075 – 1094 | 養女を天皇に入内させて中宮に冊立させ、御堂流の権勢再建を果たす。 |
| 36 | 藤原師通 | 1094 – 1099 | 関白として親政を展開し、白河上皇の権力を制限。延暦寺の強訴に毅然と対応。 |
| 37 | 藤原忠実 | 1099 – 1121 | 摂関家の再興を図るも、白河法皇の院政に屈し続け、晩年に保元の乱で失脚。 |
| 38 | 藤原忠通 | 1121 – 1150 | 保元の乱を経て摂関家の地位を回復し、政治的影響力を一時的に取り戻したが、その後は失脚し晩年に出家。歌人としても知られる。 |
| 39 | 藤原頼長 | 1150 – 1156 | 摂政関白の地位を巡り兄と対立、苛烈な性格から「悪左府」と称された。保元の乱で敗死。 |
| 40 | 藤原忠通 | 1156 – 1158 | *再任 |
| 41 | 近衛基実 | 1158 – 1166 | 後白河天皇の信任を得て関白に就任し、平清盛と縁組し摂関家の基盤を築いた。 |
| 42 | 松殿基房 | 1166 – 1179 | 平清盛の反発を受け関白を解任されるが、博識を評価され後世に影響を与えた。 |
| 43 | 近衛基通 | 1179 – 1183 | 平家との縁を活かし摂政となるが、後に源氏との対立で失脚と復権を繰り返す。 |
| 44 | 松殿師家 | 1183 – 1184 | 摂政に任じられるも政変で失脚。後に源義仲と姻戚関係を結ぶが再び失脚。出家して生涯を終える。 |
| 45 | 近衛基通 | 1184 – 1186 | *再任 |
| 46 | 九条兼実 | 1186 – 1196 | 源頼朝と結び関白に就任し、日記『玉葉』を残した。 |
| 47 | 近衛基通 | 1196 – 1202 | *再任 |
| 48 | 九条良経 | 1202 – 1206 | 九条家の嫡男として活躍、和歌所設置に関与し『新古今和歌集』撰修に貢献。書道でも「後京極流」を確立。 |
| 49 | 近衛家実 | 1206 – 1221 | 承久の乱で後鳥羽上皇の挙兵に反対し、乱後に摂政に再任され、幕府との調和を図った。 |
| 50 | 九条道家 | 1221 | 鎌倉幕府4代将軍となる藤原頼経を鎌倉に送り、摂政として政治権力を握った。 |
| 51 | 近衛家実 | 1221 – 1228 | *再任 |
| 52 | 九条道家 | 1228 – 1231 | *再任 |
| 53 | 九条教実 | 1231 – 1235 | 日記『洞院摂政記』を著し、後堀河天皇の摂政となるが、政治の実権は父に握られていた。 |
| 54 | 九条道家 | 1235 – 1237 | *再任 |
| 55 | 近衛兼経 | 1237 – 1242 | 九条家と和解し、摂政として後深草天皇を支えたが、政変で一時失脚。後に再び摂政に復帰。 |
| 56 | 二条良実 | 1242 – 1246 | 15歳で従三位に叙せられ、後に関白を務める。祖父西園寺公経に支えられ政界で活躍。道家死去後、再び関白就任。 |
| 57 | 一条実経 | 1246 – 1247 | 鎌倉時代、関白や摂政を務め、宮騒動で失脚後も再度関白に復帰した公卿。 |
| 58 | 近衛兼経 | 1247 – 1252 | *再任 |
| 59 | 鷹司兼平 | 1252 – 1261 | 摂政・関白を長く務め、能書家としても著名。日記『称念院関白記』を著す。 |
| 60 | 二条良実 | 1261 – 1265 | *再任 |
| 61 | 一条実経 | 1265 – 1267 | *再任 |
| 62 | 近衛基平 | 1267 – 1268 | 深心院関白として活躍し、鎌倉時代中期に関白や左大臣を歴任した。享年23。 |
| 63 | 鷹司基忠 | 1268 – 1273 | 鎌倉時代に関白を務め、和歌に優れ、『続拾遺和歌集』などに85首が採録された歌人。 |
| 64 | 九条忠家 | 1273 – 1274 | 道家の死後、九条家の摂関復帰を果たし、一族の地位を確立するも短命に終わる。 |
| 65 | 一条家経 | 1274 – 1275 | 和歌集に名を連ね、後宇多天皇の摂政を務めたが、翌年辞職。歌合を開催した。 |
| 66 | 鷹司兼平 | 1275 – 1287 | 摂関として23年間政務を担い、能書家としても活躍した。和歌も詠み、著作を残す。 |
| 67 | 二条師忠 | 1287 – 1289 | |
| 68 | 近衛家基 | 1289 – 1291 | 関白や右大臣を務め、鎌倉時代後期の朝廷で要職を歴任した。36歳で薨去。 |
| 69 | 九条忠教 | 1291 – 1293 | 父の復権で昇進し、関白や藤氏長者を歴任。寺院建立や寄進も行う。 |
| 70 | 近衛家基 | 1293 – 1296 | *再任 |
| 71 | 鷹司兼忠 | 1296 – 1298 | 兄・基忠の養子となり、基忠の長男・冬平を自身の養子としている。 |
| 72 | 二条兼基 | 1298 – 1305 | 兄・師忠の養子となり二条家を継ぐ。 |
| 73 | 九条師教 | 1305 – 1308 | 関白として政治を主導し、花園天皇の摂政を務めた。また、歌人としても活躍し、勅撰集に15首が収録された。 |
| 74 | 鷹司冬平 | 1308 – 1313 | 鎌倉後期、三度関白を務めた。歌人としても活躍し、勅撰集に81首収録された。 |
| 75 | 近衛家平 | 1313 – 1315 | 関白として藤氏長者に就任するが、2年で辞任。日記『岡本関白記』を残す。 |
| 76 | 鷹司冬平 | 1315 – 1316 | *再任 |
| 77 | 二条道平 | 1316 – 1318 | 後醍醐天皇の関白を務め、倒幕計画に関与。鎌倉幕府に父へ預けられるが、再び左大臣に。 |
| 78 | 一条内経 | 1318 – 1323 | 勅撰和歌集に採録された歌人。関白に昇るが政治的才能に乏しく、35歳で病死。 |
| 79 | 九条房実 | 1323 – 1324 | 九条家を継ぎ、関白や藤原氏長者を歴任するが、38歳で薨去。 |
| 80 | 鷹司冬平 | 1324 – 1327 | *再任 |
| 81 | 二条道平 | 1327 – 1330 | *再任 |
| 82 | 近衛経忠 | 1330 | 後醍醐天皇に重用され関白に就任、南朝に仕えたが、後に京都へ戻り冷遇された。 |
| 83 | 鷹司冬教 | 1330 – 1333 | 南北朝時代、後醍醐天皇の政変で関白職を解任され、建武の新政崩壊後に没した公卿。 |
| 84 | 二条道平 | 1333 – 1334 | *再任 |
| 85 | 近衛経忠 | 1334 | *再任 |
| 86 | 鷹司冬教 | 1334 – 1335 | *再任 |
| 87 | 近衛経忠 | 1335 – 1337 | *再任 |
| 88 | 近衛基嗣 | 1337 – 1338 | 南北朝時代に京の朝廷で関白を務め、室町幕府の誕生に関白として立ち会う。 |
| 89 | 一条経通 | 1338 – 1342 | 南北朝時代、北朝側に属し光明天皇の下で関白を務め、東福寺の再建に貢献した。 |
| 90 | 九条道教 | 1342 | 南北朝時代、北朝方の公家として活躍し、足利尊氏から家領の所有を認められた。 |
| 91 | 鷹司師平 | 1342 – 1346 | |
| 92 | 二条良基 | 1346 – 1358 | 関白を5度務め、連歌を大成した公卿。室町幕府と連携を図ることで朝廷の安定に尽力。 |
| 93 | 九条経教 | 1358 – 1361 | 北朝方の公家として活躍し、右大臣や左大臣を経て関白に就任。晩年、足利義満の出家に伴い自身も出家した。 |
| 94 | 近衛道嗣 | 1361 – 1363 | 日記『愚管記』で『新拾遺和歌集』に批判的意見を述べ、足利義詮を批判した。 |
| 95 | 二条良基 | 1363 – 1367 | *再任 |
| 96 | 鷹司冬通 | 1367 – 1369 | |
| 97 | 二条師良 | 1369 – 1375 | 関白として後光厳天皇らを支えたが、後に発狂し出家して38歳で亡くなった。 |
| 98 | 九条忠基 | 1375 – 1379 | |
| 99 | 二条師嗣 | 1379 – 1382 | 足利義満の怒りを買い、関白を辞任し出家に追い込まれる。 |
| 100 | 二条良基 | 1382 – 1387 | *再任 |
| 101 | 近衛兼嗣 | 1387 – 1388 | 摂政・関白として足利義満と関係を深めるが、29歳で早逝する。 |
| 102 | 二条良基 | 1388 | *再任 |
| 103 | 二条師嗣 | 1388 – 1394 | *再任 |
| 104 | 一条経嗣 | 1394 – 1398 | 将軍・足利義満の信任を受け、元号選定に関与し「応永」を採用させた。 |
| 105 | 二条師嗣 | 1398 – 1399 | *再任 |
| 106 | 一条経嗣 | 1399 – 1408 | *再任 |
| 107 | 近衛忠嗣 | 1408 – 1409 | 最愛の妻の死を嘆き自ら命を絶とうとするが未遂に終わり、出家する。 |
| 108 | 二条満基 | 1409 – 1410 | 室町時代に関白を務め、足利義嗣の元服時に加冠役を担当。歌人としても活動。 |
| 109 | 一条経嗣 | 1410 – 1418 | *再任 |
| 110 | 九条満家 | 1418 – 1424 | 室町時代、3代将軍足利義満から偏諱を受け、関白に任じられたが、寺院管理権を得られなかった。 |
| 111 | 二条持基 | 1424 – 1432 | 称光天皇の関白となり、後花園天皇の摂政に転じる。歌会を催し『新続古今和歌集』に詠歌が収録。 |
| 112 | 一条兼良 | 1432 | 古典学者として名を馳せ、源氏物語注釈や有職故実の研究を行い、三教一致を説いた。 |
| 113 | 二条持基 | 1432 – 1445 | *再任 |
| 114 | 近衛房嗣 | 1445 – 1447 | |
| 115 | 一条兼良 | 1447 – 1453 | *再任 |
| 116 | 二条持通 | 1453 – 1454 | 有識故実の権威として公家社会の信頼を集め、後土御門天皇や将軍家からも重用された。 |
| 117 | 鷹司房平 | 1454 – 1455 | |
| 118 | 二条持通 | 1455 – 1458 | *再任 |
| 119 | 一条教房 | 1458 – 1463 | 応仁の乱で奈良に避難し、その後土佐へ下向。京都文化を広め中村の繁栄を築いた。 |
| 120 | 二条持通 | 1463 – 1467 | *再任 |
| 121 | 一条兼良 | 1467 – 1470 | *再任 |
| 122 | 二条政嗣 | 1470 – 1476 | 室町時代に関白や氏長者を歴任し、足利義政から偏諱を受けた。38歳で薨去。 |
| 123 | 九条政基 | 1476 – 1479 | 家領経営を巡る対立から家司の唐橋在数を殺害し、勅勘処分を受けた。日記『政基公旅引付』を著す。 |
| 124 | 近衛政家 | 1479 – 1483 | 応仁の乱の際、近衛家の古文書を岩倉に避難させ、後世に伝えた。 |
| 125 | 鷹司政平 | 1483 – 1487 | 「政」の字は室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を受けたものである。 |
| 126 | 九条政忠 | 1487 – 1488 | 九条家の家督を継ぎ、関白や藤氏長者を務めるが、政基との家督争いで一時隠居。 |
| 127 | 一条冬良 | 1488 – 1493 | 学問に熱心で古今和歌集の講義を行い、新撰菟玖波集の編纂に尽力。 |
| 128 | 近衛尚通 | 1493 – 1497 | 戦国時代を「戦国の世」と評し、文化人として学問や文芸の普及に尽力した。 |
| 129 | 二条尚基 | 1497 | 家の経済基盤が脆弱で、戦乱期に着るものも不足するほど困窮した。27歳で死去。 |
| 130 | 一条冬良 | 1497 – 1501 | *再任 |
| 131 | 九条尚経 | 1501 – 1513 | 唐橋在数を殺害し勅勘を受けるが、後に関白として復権。著作も残す。 |
| 132 | 近衛尚通 | 1513 – 1514 | *再任 |
| 133 | 鷹司兼輔 | 1514 – 1518 | |
| 134 | 二条尹房 | 1518 – 1525 | 二条家の当主として家領回復に奔走。備前や加賀での活動中、陶晴賢の謀反により殺害される。 |
| 135 | 近衛稙家 | 1525 – 1533 | 将軍家と縁戚関係を築き、朝廷や諸大名との間で仲介役を務めた。 |
| 136 | 九条稙通 | 1533 – 1534 | 経済的困窮の中、関白を辞任。古典研究に励み、『孟津抄』など多くの注釈書を著す。 |
| 137 | 二条尹房 | 1534 – 1536 | *再任 |
| 138 | 近衛稙家 | 1536 – 1542 | *再任 |
| 139 | 鷹司忠冬 | 1542 – 1545 | 関白として従一位に昇進するが、嗣子が無く鷹司家は一度断絶した。 |
| 140 | 一条房通 | 1545 – 1548 | 京都で関白に就任し、細川国慶の強引な徴収に抗議。土佐でも当主代理として政務を執った。 |
| 141 | 二条晴良 | 1548 – 1553 | 将軍足利義昭を支持し、義昭と織田信長の対立の調停を行い、関白としての地位を維持した。 |
| 142 | 一条兼冬 | 1553 – 1554 | 戦国時代に若くして従一位・関白に昇進し、歌や絵にも秀でた公卿。 |
| 143 | 近衛前久 | 1554 – 1568 | 将軍・足利義輝を支援しつつ、上杉謙信と盟約を結び、関東平定を助けた。 |
| 144 | 二条晴良 | 1568 – 1578 | *再任 |
| 145 | 九条兼孝 | 1578 – 1581 | 豊臣秀吉の関白就任を支え、後に徳川家康の意向で再度関白に就任するが、最終的に出家して隠居。 |
| 146 | 一条内基 | 1581 – 1584 | 本能寺の変時の関白。土佐一条氏を解体し、在国公家へ戻す政策を実施。 |
| 147 | 二条昭実 | 1584 – 1585 | 天下人との結びつきを利用して関白に就任。古式典礼に通じ公家界の長老として活躍。 |
| 148 | 九条兼孝 | 1600 – 1604 | *再任 |
| 149 | 近衛信尹 | 1605 – 1606 | 寛永の三筆の一人で、関白を務めたが、関白相論で秀吉の関白就任に繋がった。後に左大臣に復職。 |
| 150 | 鷹司信房 | 1606 – 1608 | 織田信長の勧めで断絶していた鷹司家を再興し、政治や儀式に関与した。 |
| 151 | 九条幸家 | 1608 – 1612 | 江戸幕府と朝廷の仲介役として活躍し、関白を二度務め、京狩野の画家たちを庇護した。 |
| 152 | 鷹司信尚 | 1612 – 1615 | 後水尾天皇の即位時に内弁を務めたが、元和7年(1621年)に32歳で薨去。 |
| 153 | 二条昭実 | 1615 – 1619 | *再任 |
| 154 | 九条幸家 | 1619 – 1623 | *再任 |
| 155 | 近衛信尋 | 1623 – 1629 | 江戸時代初期、関白に就任し、和歌に秀でた。また、桂離宮での文化交流で知られる。 |
| 156 | 一条昭良 | 1629 – 1635 | 皇別摂家の養子となり関白や摂政を務め、後に一条家の重要な山荘を築く。 |
| 157 | 二条康道 | 1635 – 1647 | 天皇の即位儀式に立ち会い、摂政を務めたほか、幕府との交渉で朝廷の安定に尽力した。 |
| 158 | 九条道房 | 1647 | 摂政・左大臣に昇進し、父から源氏三ヶ秘決を伝授されるも、摂政就任後すぐに薨去。 |
| 159 | 一条昭良 | 1647 – 1651 | *再任 |
| 160 | 近衛尚嗣 | 1651 – 1653 | 江戸時代初期、関白として朝廷を支えた公卿。近衛家の当主を務めた。 |
| 161 | 二条光平 | 1653 – 1664 | 江戸時代初期、朝廷の重職を歴任し皇位継承問題に関与した。幕府との連携も図る。 |
| 162 | 鷹司房輔 | 1664 – 1682 | 徳川慶喜の女系祖先で、関白や摂政を歴任し公卿として活動。 |
| 163 | 一条冬経 | 1682 – 1690 | 霊元天皇の側近として関白・摂政を務め、近衛基熙と宮廷内で勢力を争った。 |
| 164 | 近衛基熙 | 1690 – 1703 | 江戸幕府と朝廷の関係改善に尽力し、親幕派として霊元上皇と対立しながらも権勢を振るった。 |
| 165 | 鷹司兼熙 | 1703 – 1707 | 霊元天皇と東山天皇の治世で朝廷政治に関与し、関白を歴任。享保10年(1725年)に薨去。 |
| 166 | 近衛家熙 | 1707 – 1712 | 書道や絵画に秀で、『唐六典』を20年かけて校勘し、完成させた公家。茶道にも通じた。 |
| 167 | 九条輔実 | 1712 – 1722 | 絵画を得意とし、摂政や関白を歴任した。弁天十五童子が遺作とされる。 |
| 168 | 二条綱平 | 1722 – 1726 | 二度の即位灌頂での争論で活躍し、尾形光琳や乾山兄弟を支援した。 |
| 169 | 近衛家久 | 1726 – 1736 | 享保17年(1732年)には祖父・近衛基熙、父・近衛家熙に続き太政大臣に就任し、朝廷内で他の摂家より優位に立った。 |
| 170 | 二条吉忠 | 1736 – 1737 | 江戸時代中期に関白となり、桜町天皇の外祖父として後に准三后を追贈される。 |
| 171 | 一条兼香 | 1737 – 1746 | 朝廷儀式の再興を推進し、江戸幕府に大嘗祭復活の支援を求めた。 |
| 172 | 一条道香 | 1746 – 1757 | 禁中並公家諸法度の制定に関与し、幕府と朝廷の調整を担った。 |
| 173 | 近衛内前 | 1757 – 1778 | 桃園天皇と後桃園天皇の関白を務め、後桜町上皇と共に後桃園天皇の後継を選定。 |
| 174 | 九条尚実 | 1778 – 1787 | 宝暦事件で摂関家の優位を維持し、後桃園天皇崩御後の皇位継承を主導。 |
| 175 | 鷹司輔平 | 1787 – 1791 | 光格天皇を補佐したが、「尊号一件」で関白として反対立場を取ったため信頼を失う。 |
| 176 | 一条輝良 | 1791 – 1795 | 関白や左大臣を歴任し、公卿として幕府との協調を図った人物。 |
| 177 | 鷹司政煕 | 1795 – 1814 | 関白在任中、朝廷運営と朝幕関係の安定に寄与し、19年間務めた。 |
| 178 | 一条忠良 | 1814 – 1823 | 茶陶を自作し、作品が現存。関白や左大臣を歴任し、准三后に列せられる。 |
| 179 | 鷹司政通 | 1823 – 1856 | 約33年間にわたり摂政・関白を務め、朝廷で大きな権力を持った。開国論を支持しつつ、後に攘夷派となる。 |
| 180 | 九条尚忠 | 1856 – 1862 | 幕末に関白を務め、幕府との協調路線を推進し、公武合体を支援した。 |
| 181 | 近衛忠煕 | 1862 – 1863 | 公武合体派として活動し、安政の大獄で失脚。後に復帰し関白を務めたが辞職。明治期も京都に居住。 |
| 182 | 鷹司輔煕 | 1863 – 1864 | 日米修好通商条約に反対し、戊午の密勅を画策。関白を免ぜられたが、後に復帰。 |
| 183 | 二条斉敬 | 1864 – 1867 | 最後の関白で摂政を務めたが、王政復古により失脚した。幕末の政治に深く関与した人物。 |
| 184 | 九条道孝 | 1868 – 1871 | 幕府協調を推進し、明治維新で新政府軍の総督となる。後に海上保険会社設立に関与。 |