藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は、平安時代の政治家。藤原式家。薬子の変では従姪の薬子、参議・仲成の兄弟が事件の首謀者として死亡したことで、緒嗣が属する藤原式家の政治的地位の低下を招いた。さらに、1歳年下である藤原北家の藤原冬嗣が新設された蔵人頭に任命されて政治の中枢に立ち、弘仁5年(814年)には従三位に昇進して官位でも緒嗣を追い抜き、台頭していく事となる。
その後の昇進面でも冬嗣の後塵を拝し続けるものの、弘仁9年(818年)には右大臣・藤原園人と中納言・藤原葛野麻呂の死去により、以降太政官において首班である冬嗣に次ぐ地位を占めた。また、『新撰姓氏録』や『日本後紀』の編纂事業に参画。特に後者については、編纂の全過程に緒嗣が関ったと言われており、彼の元に優れた文才と批判精神を持つ人たちが集められて制作された。
天長3年(826年)、冬嗣が没すると右大臣だった緒嗣は淳和天皇を助けて再び政治の中枢に立つものの、病気がちで満足に政務が取れない日々が続いた。更に将来を期待していた長男家雄にも先立たれる。加えて、嵯峨上皇崩御後の承和9年(842年)に起こった承和の変によって、中納言・藤原吉野(緒嗣の従甥)が流刑になったのは式家には大きな痛手となった。緒嗣の死後、式家は政治の中枢から遠ざかることとなる。
藤原緒嗣
参議・藤原百川の長男
氏族 | 藤原式家 |
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生没 | 774年 - 843年 |
位階 | 正二位 |
官職 | 左大臣 |
幕府職 |
配偶者
主な祖先
主な子孫
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藤原緒嗣
- 藤原家緒
左大臣・藤原緒嗣の長男
生没 799年 - 832年 位階 従四位上 官職 左兵衛督 幕府職 - 藤原春津
左大臣・藤原緒嗣の次男
生没 808年 - 859年 位階 従四位上 官職 刑部卿 幕府職 - 藤原本雄
左大臣・藤原緒嗣の子
生没 ??? - 876年 位階 従四位上 官職 大和守 幕府職 - 藤原忠宗
左大臣・藤原緒嗣の子
生没 ??? - ??? 位階 従五位下 官職 備前介 幕府職 - 女(藤原常嗣・室)
藤原緒嗣の娘
生没 ??? - 858年 位階 官職 幕府職
- 藤原家緒