| 1 | 源信 | 814 – 832 | 承和の変で中納言に昇進。応天門の変で放火の嫌疑を受けるが、無実を証明し難を逃れる。 |
| 2 | 源常 | 832 – 854 | 嵯峨天皇の皇子で、承和の変後も右大臣に昇進し、朝廷で一大勢力を築いた。 |
| 3 | 源信 | 854 – 868 | *再任 |
| 4 | 源融 | 868 – 895 | 平安時代の貴族で、六条河原院に庭園を造営。応天門の変後に急速に昇進し、左大臣に就任。 |
| 5 | 源希 | 895 – 902 | 嵯峨源氏の一員として、宇多朝で弁官や近衛次将を歴任し、醍醐朝で中納言に昇進。 |
| 6 | 源湛 | 902 – 914 | 嵯峨源氏の公卿で、清和から宇多の四朝にわたり武官を務めた。従三位に至り致仕。 |
| 7 | 源昇 | 914 – 918 | 嵯峨源氏。清和朝から醍醐朝にかけて武官や弁官を歴任し、大納言に昇進。 |
| 8 | 源悦 | 919 – 930 | 地方官を歴任し、治国の功績で昇進。大宰大弐に任命されるも赴任せず官位剥奪経験も。 |
| 9 | 藤原扶幹 | 930 – 938 | 藤原忠平の側近として活躍し、弁官職を歴任し順調に昇進。『後撰和歌集』に和歌が1首収録。 |
| 10 | 源等 | 947 – 951 | 勅撰歌人で『後撰和歌集』に4首収録。地方官を歴任し、治国の功績で昇進。 |
| 11 | 重明親王 | 951 – 954 | 学識と楽才に優れた風流人で、父・醍醐天皇から遺詔を託された。日記『吏部王記』は重要な史料。 |
| 12 | 源高明 | 954 – 969 | 安和の変で失脚し大宰府に左遷。後に帰京するも政界復帰は叶わず隠棲。 |
| 13 | 兼明親王 | 969 – 987 | 臣籍降下後に左大臣となるが政争に巻き込まれ、皇籍復帰して中務卿に転じた。詩文にも秀でた才人。 |
| 14 | 源雅信 | 987 – 993 | 円融天皇の親政を支え、左大臣として政務を推進。音楽にも秀で、朗詠の祖と称される。 |
| 15 | 源重信 | 993 – 995 | 内裏の造営や修理に貢献し、昇進を重ねた公卿。音楽に秀で、笙と笛を得意とした。 |
| 16 | 源時中 | 995 – 1001 | 近衛次将として20年仕え、寛和の変後に一条天皇の即位に貢献し正三位に昇進。管絃に秀でた。 |
| 17 | 源俊賢 | 1001 – 1019 | 藤原氏全盛期に藤原道隆・道長と親密に協力し、源氏出身ながら権大納言に昇進。 |
| 18 | 源経房 | 1019 – 1023 | 姉婿の藤原道長の後ろ盾で昇進。『枕草子』を世に広めた人物としても知られる。 |
| 19 | 藤原行成 | 1023 – 1027 | 能書家として名高く、三蹟の一人。書道世尊寺流を創始し、その書は権蹟と称された。 |
| 20 | 源師房 | 1027 – 1077 | 摂関家の藤原頼通の猶子となり、源氏で初めて大臣職に就任した。歌人としても名を残す。 |
| 21 | 源俊房 | 1077 – 1121 | 後朱雀天皇の皇女と結婚事件を起こし勅勘を受けるが、後に左大臣として長く公卿筆頭を務めた。 |
| 22 | 源雅実 | 1121 – 1124 | 源氏初の太政大臣となり、舞楽や文学でも名を残した文化人。堀河天皇の外叔父。 |
| 23 | 源師頼 | 1124 – 1139 | 漢詩や和歌に秀でた公卿。長く出仕を控えた後、権中納言に昇任。 |
| 24 | 源雅定 | 1147 – 1154 | 鳥羽院政期に皇后宮大夫となり、天皇の外戚として影響力を持った。 |
| 25 | 源雅通 | 1154 – 1175 | 一条・三条・後一条天皇に仕えた平安時代中期の武官で、歌人としても活躍した。 |
| 26 | 源定房 | 1175 – 1188 | 源定房は、保元2年(1157)に参議となり、仁安3年(1168)に大納言・正二位に昇進した公卿。 |
| 27 | 源通親 | 1188 – 1202 | 高倉天皇・後白河法皇に仕え、後に後鳥羽院政で権勢を振るう。和歌でも影響力を持つ。 |
| 28 | 源通資 | 1202 – 1205 | 内大臣に任ぜられることを望むも、病により果たせず薨去。家人らは彼を「内大臣殿」と称した。 |
| 29 | 久我通光 | 1205 – 1221 | 承久の乱で鎌倉幕府に処罰されるが、後に権勢を振るい太政大臣となった。 |
| 30 | 源通具 | 1221 – 1227 | 後鳥羽院歌壇で活躍し、『新古今和歌集』撰者の一人に選ばれる。歌人としての評価は低かった。 |
| 31 | 土御門定通 | 1227 – 1237 | 鎌倉幕府と結びつき仁治三年の政変で後嵯峨天皇の擁立に関与、政界で権勢を振るう。 |
| 32 | 源雅親 | 1237 – 1249 | 村上天皇より受け継がれてきた東久世荘を父・通資より譲り受ける。後に雅親は外孫である土御門定実にこれを譲っている。 |
| 33 | 堀川具実 | 1249 – 1250 | 内大臣に昇進するも6か月で辞任し、その後出家し隠棲した。 |
| 34 | 土御門顕定 | 1250 – 1255 | 後嵯峨天皇に仕え昇進するも、官職の横槍に不満を抱き高野山で出家した。 |
| 35 | 中院通成 | 1255 – 1269 | 大臣家としての中院家を確立し、家の基盤を築いた。 |
| 36 | 源雅忠 | 1270 – 1272 | 鎌倉時代に正二位・大納言へ昇進し、『とはずがたり』の作者である後深草院二条の父とされる。 |
| 37 | 堀川基具 | 1272 – 1287 | 朝廷で長年大納言を務め、1284年に300年ぶりに准大臣に任じられたが、現職大臣とは認められなかった。1290年に太政大臣に就任。 |
| 38 | 土御門定実 | 1287 – 1288 | 内大臣を経ずに従一位に叙せられ、太政大臣に至った公卿。『徒然草』に登場。 |
| 39 | 堀川具守 | 1288 | 近衛大将に任ぜられた初の堀川家出身者。後二条天皇の外祖父。兼好法師が家司を務めた。 |
| 40 | 久我通基 | 1288 | 鎌倉時代、久我家の危機を乗り越えつつ、4人の子を公卿に昇進させた。 |
| 41 | 堀川具守 | 1290 – 1292 | *再任 |
| 42 | 土御門定実 | 1292 – 1297 | *再任 |
| 43 | 久我通雄 | 1297 – 1298 | 和歌を詠み、晩年に長男を義絶して家督を次男に譲ろうとした。 |
| 44 | 中院通頼 | 1298 – 1301 | |
| 45 | 堀川具守 | 1302 – 1302 | *再任 |
| 46 | 中院通頼 | 1302 – 1304 | *再任 |
| 47 | 堀川具守 | 1304 – 1314 | *再任 |
| 48 | 中院通重 | 1315 – 1316 | 准大臣・中院通頼の長男。『扇次第』を著した。 |
| 49 | 中院通顕 | 1316 – 1318 | 朝廷で内大臣まで昇進し、和歌も詠んだ公卿。晩年出家し、北朝側に与した。 |
| 50 | 中院通重 | 1319 | *再任 |
| 51 | 久我通雄 | 1319 – 1323 | *再任 |
| 52 | 北畠親房 | 1323 – 1330 | 『神皇正統記』を著し、南朝の実質的指導者として活動した。 |
| 53 | 久我通定 | 1330 | 父・通雄の寵愛を受け、二男ながら久我家の後継者候補として異常な昇進を遂げる。 |
| 54 | 久我長通 | 1330 – 1332 | 家督相続問題を乗り越え、村上源氏の嫡流としての地位を確立した。 |
| 55 | 中院通顕 | 1332 – 1333 | *再任 |
| 56 | 堀川具親 | 1334 – 1340 | 堀川家最後の近衛大将。後二条天皇の外祖父として影響力を持つも、家運はその後下降。 |
| 57 | 中院通冬 | 1340 – 1341 | 故実に通じた公卿。南朝に仕えたが大臣にはなれず、日記『中院一品記』を残した。 |
| 58 | 久我長通 | 1341 – 1342 | *再任 |
| 59 | 中院通冬 | 1342 – 1344 | *再任 |
| 60 | 六条有光 | 1344 | 六条家から源氏長者となった唯一の人物。 |
| 61 | 中院通冬 | 1345 – 1354 | *再任 |
| 62 | 久我通相 | 1354 – 1371 | 内大臣昇進を望むも一度却下され、翌年に昇進実現。鷹司冬通との昇進競争が影響。 |
| 63 | 久我具通 | 1373 – 1383 | 足利義満に源氏長者の地位を奪われ、久我家は試練の時代を迎える。 |
| 64 | 足利義満 | 1383 – 1395 | 南北朝の統一を実現し、金閣を建立。勘合貿易を開始し室町幕府の権力を確立した。 |
| 65 | 足利義持 | 1413 – 1428 | 足利義持は、室町幕府第4代将軍として明との外交を断絶し、室町幕府の安定を築いた人物。 |
| 66 | 久我清通 | 1428 – 1432 | 嘉吉の変後の混乱で源氏長者に就任。しかし死後、源氏長者は足利将軍家に戻った。 |
| 67 | 足利義教 | 1432 – 1441 | 強権的な手法で室町幕府の権威を高めたが、嘉吉元年(1441年)、赤松氏に暗殺される。 |
| 68 | 久我清通 | 1441 – 1453 | *再任 |
| 69 | 足利義政 | 1453 – 1483 | 応仁の乱を引き起こした室町幕府第8代将軍。文化振興にも寄与し、東山文化を築いた。 |
| 70 | 足利義尚 | 1483 – 1489 | 応仁の乱後、幕府権力の回復を図り六角征伐を実施するが、近江で病死する。 |
| 71 | 久我豊通 | 1489 – 1519 | 三好氏と結び室町幕府で昇進。戦国時代の政界で権力を持つが、後に失脚。 |
| 72 | 足利義稙 | 1519 – 1523 | 室町幕府第10代将軍。2度の将軍職を経て、細川氏との対立や逃亡生活を繰り返した。 |
| 73 | 久我通言 | 1523 – 1536 | 戦国時代に昇進を重ね、右大臣に就任。父の死後出家、朝廷を去る。養子を迎えて家を継がせた。 |
| 74 | 久我晴通 | 1536 – 1553 | 室町幕府の取次役として大友氏と毛利氏の和平仲介を行った。晩年は足利義昭に随行。 |
| 75 | 久我通堅 | 1556 – 1575 | 勅勘を受けた後も天皇の寵愛者と密通疑惑で再び勅勘を受け、赦免されず。 |
| 76 | 徳川家康 | 1603 – 1616 | 徳川家康は源氏を称していた(清和源氏新田氏流)ため、以降の源氏長者は徳川将軍が歴任した。 |
| 77 | 徳川家光 | 1623 – 1651 | 江戸幕府の第3代将軍。参勤交代制を導入し、鎖国体制を完成させた。島原の乱を鎮圧。 |
| 78 | 徳川家綱 | 1651 – 1680 | 幼少で将軍となり、文治政治へ移行を推進。末期養子の禁を緩和し、殉死を禁止した。 |
| 79 | 徳川綱吉 | 1680 – 1709 | 江戸幕府第5代将軍。儒学を重んじ、文治政治を推進。生類憐みの令を発布した。 |
| 80 | 徳川家宣 | 1709 – 1712 | 宝永6年(1709年)に江戸幕府第6代将軍となり、文治政治を推進し、財政改革を試みた。 |
| 81 | 徳川家継 | 1713 – 1716 | 幼少で第7代将軍に就任し、短命で急逝。正徳の改革を継続するも、その後の政局は混迷。 |
| 82 | 徳川吉宗 | 1716 – 1745 | 江戸幕府第8代将軍として享保の改革を実施し、財政再建や官僚制度改革を推進した。 |
| 83 | 徳川家重 | 1745 – 1760 | 第9代将軍として在任中、享保の改革の影響下で経済政策を実施し、一揆や社会不安の対応に尽力した。 |
| 84 | 徳川家治 | 1760 – 1786 | 江戸幕府第10代将軍。田沼意次を重用しつつ、将棋や絵画に没頭した。後に毒殺説も浮上。 |
| 85 | 徳川家斉 | 1787 – 1837 | 江戸幕府第11代将軍。寛政の改革後、財政悪化と幕政腐敗を招き、大塩平八郎の乱を引き起こした。 |
| 86 | 徳川家慶 | 1837 – 1853 | 天保の改革を推進するも失敗し、黒船来航時に病床で死去。幕府財政再建を図るが挫折。 |
| 87 | 徳川家定 | 1853 – 1858 | 黒船来航後、病弱ながらも第13代将軍となり、後継者問題で異例の行動を見せた。 |
| 88 | 徳川家茂 | 1858 – 1866 | 将軍継嗣問題で南紀派の支持を受け、13歳で第14代将軍に就任。尊王攘夷運動に直面し、将軍として上洛した。 |
| 89 | 徳川慶喜 | 1866 – 1867 | 最後の征夷大将軍。慶応3年(1867年)に大政奉還を行い、江戸幕府を終焉に導いた。 |
| 90 | 久我建通 | 1868 – 1871 | 朝幕調停に尽力し、条約勅許問題や和宮降嫁問題に関与。俗に「権関白」と称された。 |