文明9年(1477年)、父・義視に伴われて美濃国に亡命した。長享3年(1489年)、早世した従兄で9代将軍の足利義尚と彼に続いて死去した伯父・足利義政の後継者として上洛し、第10代将軍に就任した。
その後、管領・細川政元と対立、明応2年(1493年)将軍職を廃され幽閉されたが(明応の政変)、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。
周防国の大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都を占領、将軍職に復帰した。しかし、大内義興が周防国に帰国すると管領・細川高国(政元の養子)と対立、大永元年(1521年)に細川晴元・細川持隆を頼り京都を出奔して将軍職を奪われ、大永3年(1523年)逃亡先の阿波国で死去した。
足利義稙
(足利義材)
室町幕府第十代征夷大将軍
足利宗家第18代当主
氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
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生没 | 1466年 - 1523年 |
位階 | 従二位 |
官職 | 権大納言 参議 右近衛中将 |
幕府職 | 征夷大将軍 |
配偶者
主な祖先
主な子孫