江戸時代後期の公卿である。文政5年(1822年)に叙爵し、以後従三位、正二位、大納言と昇進。安政元年(1854年)に議奏となり、朝幕間の調停に尽力。条約勅許問題や和宮降嫁問題に関与し、「権関白」と呼ばれるほどの影響力を持った。安政5年(1858年)に右近衛大将、文久2年(1862年)に内大臣・国事御用掛を務めたが、攘夷派に弾劾され失脚。明治元年(1868年)に赦免され、宮内省麝香間祗候などを務めた。明治22年(1889年)に従一位・勲一等に叙される。明治期の廷臣八十八卿列参事件では自身が中心的役割を果たしたと述べている。
久我建通の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
主な子孫









