義勝は幼年で政治能力が無かったため、細川持之が実権を掌握し、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐を主導した。また、「代初めの徳政」を求めた嘉吉の徳政一揆などを平定した。持之の管領辞任後、畠山持国・山名持豊や生母の日野重子らが実権を握った。
嘉吉3年(1443年)、義勝は室町殿で死去した。享年10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。
後任の将軍には、僧侶になることが予定されていた同母弟で8歳の三春(のち義成、義政)が選出された(将軍就任はその6年後の1449年)。だが、義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。
足利義勝
室町幕府第七代征夷大将軍
足利宗家第15代当主
氏族 | 河内源氏義国流足利氏 |
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生没 | 1434年 - 1443年 |
位階 | 従四位下 |
官職 | 右近衛中将 |
幕府職 | 征夷大将軍 |
配偶者
主な祖先
主な子孫