藤原 忠文(ふじわら の ただぶみ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原式家。
天慶3年(940年)関東で反乱を起した平将門を追討するために、右衛門督兼征東大将軍に任じられ、68歳の高齢ながら将門追討の責任者となる。しかし、忠文が関東に到着する前に将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれた(平将門の乱)ため、大納言・藤原実頼の反対により恩賞を得られなかった。翌天慶4年(941年)今度は瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を追討するために征西大将軍に任ぜられているが、こちらも大蔵春実らの活躍により、忠文に戦功の機会はなかった(藤原純友の乱)。
死後に実頼の身内が相次いで死去し、忠文の怨霊と噂されたという。このことから、その霊を慰めるため宇治に末多武利神社が創建された。
藤原忠文
(宇治民部卿)
参議・藤原枝良の三男
氏族 | 藤原式家 |
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生没 | 873年 - 947年 |
位階 | 正四位下 |
官職 | 参議 |
幕府職 |
配偶者
主な祖先
主な子孫