奈良時代の貴族である大蔵麻呂は、聖武天皇の時代に遣新羅少判官に任命され、新羅に渡航する。大使・阿倍継麻呂が対馬で病死する中、副使の大伴三中も疫病で入京できず、麻呂は壬生宇太麻呂とともに帰国報告を行う。新羅が使節を受け入れなかったことを奏上し、これがきっかけで対策が議論された。その後、孝謙天皇の時代に外従五位下、淳仁天皇の時代には内位の従五位下に叙せられ、大嘗祭の悠紀の国司を務める。天平神護元年(765年)には紀伊国行幸に騎兵副将軍として随行し、帰還後に従五位上に昇進。光仁天皇の時代には最終的に正五位下まで昇進した。

