室町時代後期の武将であり、加賀国の守護大名として活躍した。長禄2年(1458年)、加賀北半国守護に任じられた赤松政則から加賀北部を奪回しようと尽力。応仁元年(1467年)の応仁の乱では東軍に与したが、弟・幸千代が西軍に与したため、家督をめぐる争いが勃発。文明5年(1473年)に敗北し加賀を追われるも、浄土真宗本願寺派の支援を受けて再び当主に返り咲く。しかし、後に本願寺門徒と国人らと対立し、長享2年(1488年)に石川郡高尾城で自害する(加賀一向一揆)。その後、加賀は百姓の持ちたる国と称される状況が続いた。


