室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した武将で、伊予守護を務めた。居城は港山城。河野氏分家の予州家当主として本家と対立。細川氏の支持を受けて嘉吉の乱後に本家の河野教通を討とうとするが、援軍のため失敗。文安6年(1449年)に伊予守護となり、享徳2年(1453年)に再任されたが、細川勝元に交替させられた。長禄3年(1459年)に伊予守護に復任。細川氏と対立し、大内氏の援軍を受けて撃退。応仁の乱では西軍に参加。文明9年(1477年)に4度目の伊予守護となり、翌年本家と戦うも敗北。文明14年(1482年)に港山城で病没。子の通篤が後を継ぐが、本家に対抗できず没落。通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招いた。




