江戸時代中期の大名であり、駿河国小島藩の第5代藩主。越後国村松藩主・堀直尭の次男として生まれ、松平昌信の娘と結婚し婿養子となる。明和8年(1771年)に昌信が没し、藩主を継承。治世中には家臣の倉橋格が寛政の改革を批判する黄表紙を執筆し、問題となる。寛政元年(1789年)に倉橋は松平定信に呼び出されるが、出頭しないまま辞職。寛政8年(1796年)の巴川検分では新田開発が不許可となり、新川事件が終結。寛政12年(1800年)に隠居し、長男に家督を譲る。享和元年(1801年)に死去し、東京都台東区下谷の英信寺に葬られる。











