江戸時代中期の公卿として活動した。享保2年(1717年)に叙爵し、享保10年(1725年)に従五位上侍従に任ぜられる。元文5年(1740年)に蔵人頭、翌年には正四位上参議に昇進した。妹が桜町天皇の皇子を生んだことを機に、その近習になり、延享4年(1747年)には桃園天皇の即位に伴い議奏に任じられた。権中納言や権大納言を歴任し、従二位、正二位と昇進を続けた。宝暦事件の際には天皇側近と摂家の対立の中で融和を図る立場に立ち、最終的には側近勢力の排除に関与。晩年は武家伝奏を務め、安永3年(1773年)に退任し、安永5年(1775年)に従一位に叙された。











