江戸時代中期の旗本である吉良義孚は、吉良家の支流である東条家を継ぎ、赤穂事件で絶えた吉良の家名を復興させた。宝永8年/正徳元年(1711年)に旗本柘植三右衛門影正の次男として生まれ、享保7年(1722年)に東条義武の末期養子となる。翌年、東条家の家督相続が認められ、享保17年(1732年)に吉良姓への復姓が許される。その後、西の丸書院番を務めたが、宝暦10年(1761年)に辞職し、明和3年(1766年)に56歳で死去。吉良家の菩提寺である牛込の万昌院に葬られた。家督は長男の吉良義勝が継ぎ、さらに義勝の子である義渡、義渡の弟の義質が続いた。






