小田顕家は戦国時代の人物で、北条城を領有したため北条顕家とも呼ばれる。父の成治の次子でありながら、1496年頃には家督争いを引き起こし、兄の治孝を殺害。その結果、成治は小田政治を当主とした。政治は顕家の弟とも、足利政知の実子ともいわれる。その後、顕家も追討され滅ぼされたとされるが、詳細な末路は不明である。
もう一人の小田顕家は、戦国時代における種垂城や騎西城の城主で、大炊頭の職を持つ。小田朝興(家時)の養父としても知られ、成田親泰の子である宗長を娘婿とし隠居した。雲祥寺の開基であり、墓所も同寺にある。常陸小田氏との関係は不明で、活動時期が重なるが別系統の可能性が指摘されている。











