幕末期の公家である近衛忠房は、従一位・左大臣にまで昇り、号は光山。薩摩藩との関わりが深く、これは父・忠煕や妻が島津家と縁があったためである。弘化4年(1847年)に正五位上に叙された後、内大臣や左大臣を歴任したが、公武合体派である父の秘書的立場だったため、討幕派が台頭すると官を辞した。王政復古の大号令後、新政府で様々な役職を務めたが、明治6年(1873年)に36歳で死去した。彼の若くしての死は、政治的活躍を期待していた父・忠煕にとって大きな痛手だった。
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近衛忠房の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
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