平安時代初期の貴族であり書家としても名を馳せた。延暦23年(804年)に遣唐使として渡唐し、琴と書を学ぶ。帰国後、唐での学びを活かし、書の名手として知られた。仁明朝で従五位下に叙せられるが、承和9年(842年)の承和の変で謀反の疑いをかけられ、伊豆国へ流罪となる。護送の途中、遠江国で客死した。死後、罪が許され、位が追贈され京に改葬された。その後も怨霊として恐れられ、御霊会で祀られた。書風は王羲之風で、唐の新しい気風を取り入れたと評される。真跡は少ないが、空海の三十帖冊子の一部や興福寺南円堂銅燈台銘が彼の筆とされる。性格は放胆で細かいことに拘らなかったと伝えられる。









