室町時代前期の武士である赤松持貞は、赤松氏庶流・春日部家の3代当主として、足利将軍家の近習を務めた。持貞は室町幕府4代将軍・足利義持から偏諱を受け、その側近として活動した。主に寺社との交渉を担当し、義持の命令を奉行衆に代わって行うこともあった。応永34年(1427年)には、義持が赤松満祐を追放し、持貞に3ヶ国の守護職を与えようとする噂が流れる。しかし、幕臣たちは義持が持貞を寵愛したためと判断し、持貞に「義持の妻女との密通」という罪を課し、自害させた。持貞の死後、春日部家は持貞の甥・貞村が継ぎ、嫡男・家貞は田原姓を名乗り播磨に逃れた。











