豊後岡藩の第12代藩主として、幕末の動乱期に活躍。伊勢津藩主の次男でありながら、岡藩主・中川久教の養女・栄子の婿養子となり、天保11年(1840年)に藩主の地位を継承。徳川家に親しい藤堂家からの養子であったため、尊王派の勢力が強かった岡藩では、天保12年(1841年)に尊王思想家である柳井藻次郎、小河一敏らを藩の中枢から排除することに成功。藩内では大火や風雨による被害が続き、財政難に直面。慶応4年(1868年)、上洛し、明治2年(1869年)には版籍奉還を行い知藩事に就任。同年に隠居し、家督を長男の久成に譲った。享年70で没する。


