近江膳所藩の第2代藩主を務めた後、慶安4年(1651年)に伊勢亀山に移封。明暦元年(1655年)、近江守山宿で朝鮮通信使を接待。明暦の大火(1657年)では被災者救援に尽力し、内藤忠興らと共に増上寺前で粥を炊き出した。寛文9年(1669年)、1万石を加増され山城淀へ移封。延宝5年(1677年)には畿内と西国の天領の検地を行う。優れた教養人であり、将軍徳川綱吉の学問の師を務め、多くの著書を残した。嫡子と嫡孫が早世したため、宝永3年(1706年)に次男の義孝に家督を譲り隠居。宝永4年(1707年)に74歳で死去。墓所は京都の本禅寺。










