平安時代末期から鎌倉時代初期の武将であった。彼は鳥羽院や後白河院の北面武士を務め、左衛門尉に任じられた。治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵した際、関東に拠点を持つ彼は平清盛に抑留されたが、元暦元年(1184年)には帰国し、頼朝に従った。文治5年(1189年)の奥州合戦では、頼朝から「坂東一の弓取り」と賞賛される功績を挙げた。建久3年(1192年)には嫡男が夭逝し出家したが、建久5年(1194年)に公田横領の罪で土佐国へ流された。建久7年(1196年)に赦免され、栃木県益子町に戻り、余生を過ごし、元久元年(1204年)に83歳で亡くなった。

















