平安時代初期の貴族であった。天平宝字7年(763年)、父と見られる池田親王が子女の皇籍削除を懸念し、御長真人姓を賜与されるよう願い出た際に、広岳もその姓となった可能性がある。延暦15年(796年)、正六位上・上野介として渤海使を送り届けた際、渤海国王から使人派遣の打診を受けるが、日本の朝廷の許可がないため辞退した。帰国後、従五位下に昇叙され、延暦18年(799年)には大学助に任ぜられる。延暦25年(806年)には左中弁となり、桓武天皇の葬儀では御装束司を務める。薬子の変では嵯峨天皇側に与し、従四位下に叙せられた。弘仁8年(817年)に69歳で没した。








