藤原道長の次女である藤原妍子は、寛弘元年(1004年)に尚侍として宮中に入り、その後三条天皇の中宮となった。彼女は和歌に秀で、『新古今和歌集』などに8首が収められている。文学サロンを持ち、勅撰歌人の大和宣旨を抱えていた。長和2年(1013年)に娘の禎子内親王を出産したが、皇子を産むことはなく、道長と三条天皇の関係修復には至らなかった。結局、三条天皇は道長の圧力により譲位し、妍子の皇子が帝位に就くことはなかった。晩年は一人娘と共に枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)に出家し崩去した。彼女の美しさと華美な生活は有名で、兄の頼通に叱責された逸話も残っている。











