室町時代後期から戦国時代にかけて活躍した武将。初めは経秀と名乗っていたが、足利義材から偏諱を賜り改名する。文明17年(1485年)、室町幕府から侍所頭人に任命され、多賀高忠を所司代に任命したが、父政経の失態で失脚。明応の政変後は京極氏の復帰を狙い、度々戦を挑むも失敗を重ねた。文亀元年(1501年)には浅井直種と共に今浜を攻めたが敗北。永正2年(1505年)にも攻撃を試みたが失敗し、最終的に和睦するも、永正4年に高清に自殺させられたとされる。翌年、父も死去し、子の吉童子丸に家督を譲ったが、その後行方不明となる。出雲は尼子経久の支配下に置かれた。また、京極高吉の父ともされる。











