戦国時代の武将である吉良頼康は、武蔵国の世田谷城や蒔田城を拠点に活動し、「世田谷御所」や「蒔田御前」と称された。大永4年(1524年)、北条氏綱が江戸城を攻略すると、後北条氏に従った。天文2年(1533年)には氏綱の鶴岡八幡宮造営に関与し、材木を蒔田から海路で運んだ記録がある。後に氏綱の娘を正室に迎え、天文17年(1548年)には北条氏康より一字を拝領し、頼康と改名。北条氏の特別な待遇を受けつつも、永禄3年(1560年)、堀越六郎の子氏朝を養子に迎え、家督を継がせた。永禄4年12月5日(1562年1月10日)に死去し、蒔田の勝国寺に葬られた。頼康の死後、吉良氏は北条家の家臣として組み入れられたが、その過程には異論もある。











