左大臣・長屋王の子である黄文王は、藤原不比等の外孫として天平元年(729年)の長屋王の変で死を免れた。天平9年(737年)には兄の安宿王とともに叙位を受け、以降順調に昇進するも、天平13年(741年)頃からは昇進が止まる。天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の乱に積極的に加担し、新帝候補とされたが、計画は密告により露見。捕らえられ、拷問を受けて獄死する。黄文王の名前は山背国久世郡の豪族・黄文氏に由来する可能性があり、橘氏との関係を深める要因となったと考えられる。政治的には不遇であったが、橘氏の支援を受けていたとされる。









