元中9年/明徳3年(1392年)の南北朝合一のあと、ほどなくして合一が解消され、日本各地で南朝の残党が「後南朝」として活動を再開。鎌倉公方足利満兼が病に倒れたとの報を受けた父・貞方は東国の旧南朝派に決起を促す書状を出したが、逆に鎌倉に潜伏先を通報され、貞邦も父と共に鎌倉七里ヶ浜で処刑された。貞邦には子がなく、直系の新田本宗家の血筋はここで事実上断絶した。<br>
兄弟とされる堀江貞政は、父と兄の刑死後に武蔵国稲毛郡(または橘樹郡、現在の神奈川県川崎市)に逃れ、堀江氏を名乗って生き延びたという。











