長門国長府藩の3代藩主として、父の死去により承応2年(1653年)に藩を継ぐ。文武奨励や覚苑寺建立など藩政に尽力し、元禄10年(1697年)には窮民の救済に努める。文芸・和歌を好み、自らの歌が「歌書尾花末」や「和歌視今集」に収められる。元禄15年(1702年)、赤穂浪士の10人を預かり、厳重に監視した。切腹の際には「扇子腹」を用意するが、幕閣からの指摘で小脇差を提供。義士の死後、収容小屋の破却と切腹跡地の清掃を指示し、泉岳寺での義士との併葬を避けた。宝永6年(1709年)に死去し、覚苑寺および豊功社に祀られる。











