室町時代後期の武将で因幡守護を務めた。永正8年(1511年)、船岡山合戦で足利義材方に参戦し、史料に初めてその名が登場する。因幡守護就任の経緯には、兄・豊重を殺害して地位を奪ったとの説があり、このため豊重の子・豊治による攻撃を受ける。永正10年(1513年)には布施天馬口合戦、布施正木口合戦などで守護所周辺が戦火に見舞われ、守護の地位をわずか3年ほどで失ったと考えられる。最期についての史料は乏しいが、永正12年(1515年)には守護交代があったらしい。因幡国内での抗争は激化し、領内の大安興寺が戦火で焼失した記録も残る。











