江戸時代前期の大名である最上義俊は、出羽山形藩の第3代藩主として13歳で家督を継いだが、若さゆえ家臣の不信を招いた。特に叔父の山野辺義忠を支持する派との対立が深まり、幕府に訴えるも、最上騒動と称される事態に発展。元和8年(1622年)、幕府は義俊の政治力不足を理由に最上家の改易を決定した。57万石からの大幅減封後、近江大森藩主となるも、寛永8年(1632年)に27歳で早世。義俊の後を継いだ嫡男義智は5000石に減封され、最上家は交代寄合として存続した。義俊は福島正則改易の際、若年ながら見事な統率を見せたことが記録されている。











