崇徳天皇の皇后である藤原聖子は、大治4年(1129年)に天皇の女御として宮中に入り、翌年中宮に冊立された。父の藤原忠通は摂政であり、彼女の入内は摂関家再興の期待を背負っていた。しかし、聖子は子をもうけず、代わりに鳥羽法皇の皇子・體仁親王の准母となった。永治元年(1141年)に皇太后となり、久安6年(1150年)には皇嘉門院の院号を受けた。保元元年(1156年)の保元の乱では、父と夫が敵対し、崇徳上皇の配流後に出家。父の死後、異母弟の九条兼実の後見を受け、彼の嫡男・良通を猶子とし、九条家の基盤を築いたとされる。
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藤原聖子の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
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