平安末期から鎌倉初期にかけての公卿で、官位は従一位・太政大臣。10歳で元服し、侍従を経て14歳で公卿に列したが、才覚に乏しく長く議政官にはなれなかった。寿永2年(1183年)、法住寺合戦に巻き込まれ一時消息不明となるが、その後権大納言や大納言へと昇進。建久元年(1190年)、内大臣に昇進するが翌年には太政大臣に任じられ、朝議を主催する道は閉ざされた。建久7年(1196年)の政変で辞任。正治元年(1199年)に出家し、65歳で薨去。和歌を愛し、柿本人麻呂を尊敬していた。藤原定家の『明月記』には、出世はあまりなかったが、世俗に執着せず持律清浄の評判があったと記されている。











