平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、公卿として活躍した。鳥羽法皇と後白河法皇の二代にわたり院近臣を務め、法皇の信任を得て鳥羽院庁や後白河院庁で別当として重用された。永万2年(1166年)には蔵人頭兼右大弁に就任し、安元元年(1175年)には参議となり公卿に列した。寿永2年(1183年)、木曾義仲の圧力で一時解官されるが、義仲の失脚後にはすぐに復権。文治4年(1188年)、権大納言に昇進するが、源義経に同調したとされ再び解官された。後白河法皇の庇護により復官するが、建仁元年(1201年)に病に倒れ出家、翌日に67歳で薨去した。能書家としても名を残した。











