平安時代後期の公卿である藤原顕隆は、藤原北家高藤流に属し、白河院政期において重要な役割を果たした。院蔵人として白河法皇に仕え、寛治3年(1089年)に宮内権少輔に任じられ、その後も弁官として20年以上にわたり活躍。康和5年(1103年)には五条高倉第で後の鳥羽天皇となる宗仁親王が誕生し、その近侍として影響を与えた。保安2年(1121年)には藤原忠実が関白を辞した際、法皇との関係を背景に政治的影響力を強めた。晩年には「夜の関白」と称され、院政期を代表する政治家とされる。大治4年(1129年)に薨去し、彼の子孫は葉室家として繁栄した。





















