平家の後援を受けて育ち、寿永2年(1183年)には安徳天皇の皇太子に擬されて西国へ同行するが、平家滅亡後に帰京。都では後鳥羽天皇が即位していたため、親王宣下を受け持明院宮を号す。建暦2年(1212年)に出家し行助と名乗る。承久の乱後、幕府は後鳥羽系を排除し、行助の子である茂仁王を後堀河天皇として即位させる。行助は異例の太上天皇号を奉られ法皇となり、院政を敷くが、治天の君としての実績を残す中、貞応2年(1223年)に薨去。後高倉院の院号が贈られる。
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守貞親王の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
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