平安時代後期の公卿である。後白河上皇の近臣として活動しつつ、平清盛の娘を妻としたため親平家派の廷臣としても知られる。1161年(応保元年)には、平教盛や平時忠らと共に二条天皇を廃し、憲仁親王を擁立する陰謀に関与したことで官職を解かれるが、後に赦免され平氏政権の台頭とともに昇進を果たす。1168年(仁安3年)には従三位に進み、娘の殖子は高倉天皇の寵愛を受け、守貞親王と尊成親王を産む。1179年(治承3年)、54歳で薨去。1183年(寿永2年)、尊成親王が後鳥羽天皇として即位したことにより、従一位・左大臣を追贈された。





















