鎌倉時代中期の公卿である中御門経任は、後嵯峨上皇の有力な側近として活躍し、若くして院の伝奏を務めた。蔵人を経ずに右少弁に任命されるなど、異例の昇進を遂げたが、これが上皇の側近偏重人事とされ物議を醸した。実務官僚としての才覚に優れ、弘安の役直前には「敵国降伏」を祈念する勅使として伊勢神宮に派遣された。昇進の過程で多くの騒動を巻き起こし、恩人の後嵯峨法皇崩御後も官職に留まり続けたため、世間から批判を受けた。後に持明院統に仕えるが、経任系の中御門家は3代で没落し、従兄弟の系統が続いた。『とはずがたり』や『増鏡』では彼に対する非難が記されている。

















