鎌倉時代中期の御家人である長井時秀は、父の死後、1254年(建長6年)に引付衆五番に任命され幕政に参加した。1257年(正嘉元年)、1264年(文永元年)、1282年(弘安5年)には東使として京都に赴いた記録がある。1265年(文永2年)に評定衆となり、1271年(文永8年)に備前守に就任。歴代将軍の側近としても重用された。1275年(建治元年)、京都若宮八幡宮社の再建に際し、多額の費用を提供した。1284年(弘安7年)の北条時宗の死去を機に出家し、その後の活動は不明。出羽長井荘に資福寺を建立し、学問の中心地として知られた。





















