平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿である。正二位・内大臣を務め、中山家の始祖となる。保延6年(1140年)に従五位下に叙され、蔵人や近衛少将・中将、蔵人頭を歴任した。仁安2年(1167年)には従三位権中納言となり、平徳子の中宮権大夫や建礼門院別当としても仕える。後白河法皇の院庁別当も務め、有職故実に通じて評価された。源頼朝からもその知識を評価され、議奏公卿に推挙される。建久2年(1191年)に内大臣に就任し、建久5年(1194年)に出家。享年65で薨去する。晩年には洛東の中山に別宅を構え、中山内府の名が後の家名となった。日記『山槐記』を著し、『水鏡』の作者ともされる。
主な祖先
中山忠親の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
主な子孫





















