牟漏女王は、敏達天皇の系譜を引く皇族で、藤原房前の妻となる。和銅7年(714年)に子の永手を産む。母の県犬養三千代が大宝元年(701年)までに藤原不比等の室となり、房前とは義兄弟姉妹の関係でもあった。天平8年(736年)、法隆寺に花形白銅鏡を寄進。夫の房前が天平9年(737年)に没し、寡婦となり「北の大家」と称された。天平11年(739年)に従三位に叙せられる。兄の橘諸兄が朝廷の頂点にあり、宮廷に出仕したと考えられる。興福寺の不空羂索観音像は、天平17年(745年)、房前の追善のために子の真楯らと造立。天平18年(746年)正月に薨去し、正三位にあった。
















