平安時代後期の貴族で、白河院政期から鳥羽院政期にかけて活躍した。永長2年(1097年)若狭守に任じられ、以後、越後守、加賀守、尾張守、備中守、但馬守など諸国の受領を歴任した。最終的には刑部卿に任ぜられ京官として仕えた。康和元年(1099年)には令子内親王家の別当も務め、天承元年(1131年)には鳥羽上皇の供奉中に襲撃事件に遭遇した。保延4年(1138年)に出家し、篳篥の名手としても知られた。『古今著聞集』には篳篥に関する逸話が収録されており、容姿は醜かったが妻との関係を篳篥を通じて修復した話が伝わる。





















